第46回句会桃李8月定例句会披講

選句方法:天地人方式(各3、2、1点)
兼題:空蝉、樹幹、帰郷(不言題)

夏または秋の句 雑詠または題詠
今月は重陽さんから題を頂戴しました。
有言の題詠(その言葉を使う)
は「空蝉(うつせみ)」または「樹幹(木の幹)」
不言の題詠(その言葉を使わずに、心を詠む)は、
「帰郷」です。
8月15日(火)投句受付開始
8月22日(火)投句締切、選句開始
8月29日(火)選句締切、披講

投句: 冬月、葉子、重陽、天藤志織、旅遊、木菟、香世、絵馬、暁生、碁仇、登美子、やんま、悠久子、ひとし、省吾
選句: 葉子、碁仇、やんま、天藤志織、千両、暁生、木菟、重陽、登美子、冬月、香世、省吾、悠久子、愛、絵馬、ひとし

披講

・10点句

夏泊まり重ねし吾子は日の匂ひ  絵馬
<葉子(人)>
この吾子は男の子だろうか。夏を子どもらしく外で遊び暮らすのは現代の子どもにはなかなか許されないことだが、この子は日向くさくなるほど遊んだようだ。かってはこういう子どもたちが沢山いたものだ。懐かしい。

<天藤志織(天)>
高原や、海や、田舎や、いろいろ楽しい思い出を積み重ねて、少したくましくなった吾が子に、日の匂いを感じている。明るくて、ほほえましい句だと思う。

<木菟(地)>
真っ黒に日焼けして、久しぶりに見る我が子の顔も、改めて見直したりしたい成長振りが浮かんできます。

<重陽(人)>
こんなことがあったなぁー、と懐かしく思い出させてくれました。
親子の情がさりげなく爽やかな感じがよい。

<愛(天)>
真っ黒に日焼けした子供、顔だけじゃなくて、それこそ全身日焼けした感じ
なのでしょうね。口調が良いので、まずこの句を選んでしまいました。


・8点句

床屋過ぎ豆腐屋を過ぎ虫の闇  天藤志織
<葉子(天)>
久々に故郷に帰って、懐かしい床屋(都会ではなかなか
みつからないのでは)や豆腐屋が残っているのにほっとしている感じがよく出ている。虫の闇という表現もよい。

<重陽(天)>
整髪はビルの床屋で、豆腐はスーパーで買う今。
なるほどここには生業があり闇がある。
何気ない句であるが、共感を呼ぶ。

<香世(地)>
田舎ですね。夜、故郷にたどりつく。
床屋がって、豆腐屋があって、そこを過ぎると町はずれ。
暗い道を、虫時雨のなか、我が家にたどりつく。


・7点句

夏休み祖国に往くと、老司祭  絵馬
<碁仇(天)>
帰郷の句の中では、この句が一番気に入りました。
「往く」としたことで、日本に来てからの時間の長さが感じられます。
「行く」や「帰る」としたのでは、句が軽くなってしまいそうですね。
不言題なので「帰る」は使えませんが.....

<やんま(天)>
もうその土着の人々にすっかり馴染み親しまれていた老司祭にも故郷があり、父母がいた。日本では日本語以外喋らなかったカンガス神父も、上智大の夏休みともなると、寅さんバック(私にはそう見えた)を小脇にどこかへ消えていった。そうですか、あれは祖国へお帰りになっていたのですね。

<香世(人)>
司祭は、祖国にひさしぶりに帰国。夏休みが終われば日本に帰ってくる。
そうあってほしい。

その道は幾筋もあり秋の瀬戸  悠久子
<やんま(地)>
ふうむ、帰郷の不言で瀬戸は瀬戸内海を囲んだどこかであろうか?いく筋もある海流も小島小岩に分けられてまた複雑な分岐です。潮の道筋は違っても関門から鳴門へ向けて瀬戸の道筋は切々とした走ってゆきます。

<暁生(地)>
穏やかな瀬戸の風景が目に浮かびます

<香世(天)>
瀬戸内海に面した故郷でしょうか。ぐねぐねと曲がった道がいろいろあって
地元に人にしかわからない。目印の家も木々も昔と同じ。


・5点句

幼子の手に空蝉の透けて見ゆ  香世
<千両(地)>
 きれいですね。かわいいちっちゃい手。ちょこんとのせてみる。
 きっとぐしゃ。……と握りつぶしそうですが……。
 それを透けて見えるというと、きれいです。

<暁生(天)>
遠い記憶がよみがえりました。

空蝉や主ありし日の網代垣  重陽
<木菟(天)>
 在りし日に網代垣を編んだであろう人の息吹と、網代垣の何処かうらさびしい風
景が重なって胸に沁みます。

<登美子(地)>
一読、源氏物語の世界ですね。
空蝉と主のいなくなった家の網代垣と。
出来すぎのようでもありますが
そこはかとないあわれが感じられて好きです。

滝壷や松の樹幹も洗はれて  ひとし
<登美子(天)>
どうどうと落ちる滝とそのしぶきに濡れる松と。
爽涼の気が漂う力強い句ですね。

<悠久子(地)>
力強さと清冽と。


・4点句

まだ知らぬ明日の出会いに髪洗ふ  香世
<木菟(人)>
 処女の恥じらいを思わせる、いかにも初々しい感覚です。

<省吾(天)>
色々な事を想像します。
決意、悲愴、期待、不安、等など..........

青空に無心の雲や原爆忌  葉子
<冬月(地)>
国破れて山河あり、のような趣がある。人間の悲劇と関係なく自然は巡っているという醒めた眼差しが一層原爆の悲劇を浮き立たせている。

<絵馬(地)>
「無心の」という言葉が効いている。
ただ、敢えて云えば原爆忌の俳句は難しい。
事実の重みを俳句が支えきれるかどうかが問われる。
原爆の恐ろしさは、俳句の世界がこれまで依拠してきた自然の営みそのものですら
破壊するところにあるのです。


・3点句

潮騒の音さはさはと昼寝かな  絵馬
<天藤志織(人)>
海辺の砂丘に育つ松の下だろうか。夢の中と現実の区別がつきにくくなるような、ここちよい昼下がりの風景が、過不足のない言葉で書かれている。

<愛(地)>
「さわさわ」と「かな」のA音があかるくて、とても気持ちよさそうです。
海の家での昼寝ですね。

ここにいま恋ふ人もなき木下闇  木菟
<ひとし(天)>
何十年ぶりかの帰郷、かつての満たされぬ思いがよみがえる。
木下闇は、深層意識にうごめくリビドーの象徴か。こういう恋句は大歓迎します。
そういえば、芭蕉に「須磨寺や吹かぬ笛聴く木下闇」の句がありますね。

夏風邪に放浪の夢遠のけり  香世
<冬月(天)>
放浪という非日常と夏風邪という日常の対比が面白い。大きな夢が小さな出来事のせいで潰えるというユーモアも感じられる。

我もその一つなるらむ万灯火  旅遊
<絵馬(天)>
万燈会というと、たとえば、東京池上本門寺の御命講で、秋の夜を徹して行われま
す。灯火は、仏教では、「法灯明」すなわち、釈尊より受け継がれた教えが
入滅したものから生けるものへと伝えられることを表します。掲句は、そういう
仏教的な背景を念頭において理解すると味わいが増すでしょう。

毀たれし小学校跡青銀杏  登美子
<悠久子(天)>
実際にはそういう情景に出会ったことがないのに、自分の体験のような気さえする不思議な魅力がありました。

遠雷を父の小言のごとく聞き  葉子
<千両(天)>
 なにかあったのでしょうか? ずっと遠くでなっている。空は晴れている。
雨など金輪際降りそうもない。さて、なぜ、父親を思い出したのでしょうか? 

星流るトトロの棲める樹幹へと  天藤志織
<暁生(人)>
ファンタジックでいいですね

<悠久子(人)>
メルヘンの世界へと誘われます。むしろこれからの季節に似合いそうです。

<愛(人)>
トトロのアニメーション、昔良く見ました。
懐かしかったですね。


・2点句

大木を抱くが如し蝉の殻  碁仇
<葉子(地)>
空蝉というものは、どんなものにでもしっかとしがみついているものだが、それを逆に「抱く」といっているところが面白い。

古里を覗きに来たら山椒魚  やんま
<ひとし(地)>
この句、「古里や覗きに帰る山椒魚」だったら、間違いなく「天」にしたと思う。元の句では、山椒魚に出逢った意外さが眼目。それより、山椒魚のいる古里に帰りたいという気持ちを詠むほうが、私にはジーンと来る。ともかく、「帰郷」という題詠で、山椒魚を連想するセンスは抜群だと思う。

空蝉の飴色胸に飾りたき  悠久子
<天藤志織(地)>
何か悲しい印象を持ちがちな空蝉に、美しい飴色を感じているのがよい。こうした前向きな感性がうらやましい。

空蝉の転び果てたる夕べかな  ひとし
<重陽(地)>
強く何かを訴えてくるものがある。
ただ、「空蝉や・・」であれば、もっと余韻が深まったように思う。

空蝉や戻らぬものを待ち侘びて  碁仇
<省吾(地)>
わが家の庭の木にも空蝉を見つけました。
故郷を出て帰る機会を失い、今日までここにいます。

終戦忌はるかに父の齢超え  登美子
<省吾(人)>
「父の齢超え」には何とも言えないものを感じます。

<絵馬(人)>
終戦忌、遙かに父の歳を越えたのは、作者自身でもあるだろう。
人それぞれに8月15日の感慨がある。敗戦の日の思出は、親から子へと語り継が
れていく。その伝承を大切にしたい。
たとえば、敗戦の事実を感知していた私の隣家の軍族の方は、自決するつもりでピ
ストルに弾を詰め、必要ならば、それをひとつ貴方にも差し上げましょうと真顔で
私の母に告げたという。その話を、私は何度も何度も、母から聞かされた。それか
ら半世紀が過ぎ、人々の価値観は大きく変わった。

蝉時雨今年はなかぬと母の言う  省吾
<碁仇(地)>
さりげないが、なぜか読み流せない句でした。
どうして「今年はなかぬ」と言ったのでしょうか。
「母の耳が遠くなったのか、それとも他に原因があるのだろうか」などなど。
その原因を詠んでいないことで、余韻が生まれました。


・1点句

空蝉をつぶして匂う深き闇  冬月
<碁仇(人)>
感性の良さで取りました。
「つぶして匂う」と動詞がふたつ続かない工夫があれば、たぶん天に取って
いたでしょう。例えば「空蝉のつぶれし匂ひ深き闇」とか。
まだ、推敲できそうですが....

赤く出て白く沈めり夏の月  旅遊
<やんま(人)>
のっと赤く出た月、本当に大きいものですね。盆のようなこの月は、やがて太陽の対を廻って西空に白く沈んでゆきます。赤から白へ変わる時間のドラマの中でこの作者は何を思い患ずらっていたのであろう。

夏草に道閉ざされてしまひけり  やんま
<登美子(人)>
この素直さがいいですね。
夏草のさかんな勢いに阻まれて遠回りする、
昔の野原にはよくあった光景だと
懐かしい気持ちになりました。

ふるさとの定義なくして盆の月  冬月
<ひとし(人)>
「定義」なんて しかつめらしい言葉を使った俳句は はじめてみた。
「ふるさとの定義なくして」は故郷の概念が曖昧になったと云う意味だと
ちょっと真面目すぎる。そこで、ここは、
「ふるさとの定義亡くして」と漢字で書けば俳諧になる。
「故郷だって、そんなもんどっかになくしちまったぜ、お月さんよ」
という感じ..

去る人を追わず見ている遠花火  葉子
<千両(人)>
 ドラマがありますね。そんなにきれいな花火などないハズで……。
 さぞや、……無念の。かぎゃー。たまゃー。

いつ帰る電話の向こうの蝉時雨  省吾
<冬月(人)>
電話の向こうの蝉時雨はこちら側と異なるのではないか。そういう遠い地に相手がいるような気がする。それだけに帰りを待ちわびる気持ちが強く、蝉時雨というメタファーで暗示的に表現されている。