延原時行歌集より 投稿者:丹仙 投稿日:2017/05/28(Sun) 16:54 No.9 | |
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〇(22日)脱核文明の秋の歌二十二首
一 驚きぬ天の配剤言ふべきか『風の歌』本巧みに上昇
(備考:拙著『良寛「風の歌」にちなんで――御友神学の省察』(新潟・考古堂書店、1016年)只今、アマゾン「良寛」欄764件中82位なり、永き間低 迷せしも)
二 この著をば元本なして『平安』本補遺とせしもや遂に成功
三 『平安』本友ありて書く脱核の文明意図をつぶさに見事
(備考:同志社神学部級友小柳伸顕師読後感ご高著『イエスが渡すあなたのバトン――関西労伝60年の歩』(大阪・かんよう出版、2017年)に挟みてやあ り、曰く、「前略 『平安ありて平和なる』をおおくりくださりありがとうございます。いつも大国は核を持ち使う権利を主張し、小国が持とうとすると(イスラエル は認め)制裁するとはなぜか。もちろん核は原発を含め認めませんが。2017.5.17 小柳」)
四 補遺読みてやっと元本これやとぞ読者諸賢ぞ今気づきたり
五 元々や『良寛「風の歌」』本や仏基対話の御友神学
六 その中の「原爆投下」「核時代」二点掘り下げ成すや『平安』
七 漸くに「平安ありて平和なる」時代の耳目捉えたる如
八 北危機の発信せるや偽情報「軍略ありて平和なる」とぞ
(備考:北も米も「軍略ありて平和なる」偽情報に身を任せおり)
九 人類(ひと)文明この先百年持つためにゃ偽情報を根治せねばや
十 それにはやいのち三相しかとぞや認むよりほか道ぞ無きなり
十一 今生の陣取り止まず核時代今のままでや所詮百年
十二 ここに人類(ひと)米の始めし恐ろしき大罪時代認識す
(備考:米の核投下は、それのみならず、「核時代」といふ恐怖を始めしところに人類規模の「大罪」あるなり。この大罪、忌まわしくも、「キリスト教絶対主 義」なる偽究極的形而上学に起因するなり。それに似た偽言語を用いたるや北も同様ならずや。これいずれも「核偽情報」的「自己絶対化」と名付くべし)
十三 我にとり人類(ひと)文明や懸かりたる御友神学両端あるや
十四 左端深く顧慮すや「原受肉」右端げにも父御許往く
十五 人類(ひと)如何に「軍略」依存極むともいのち両端無恥無智ぞげに
十六 「哲学の喜び」にてや原理これ《原事実ぞや「新現在」産む》
(備考:『哲学の喜び――チェンジの時代に、根底を省察する滝沢語録を読む。』この事、滝沢、サルトル、デカルト巡りて、詳述す)
十七 この原理「原受肉」のや照射すや御友神学現るやそも
十八 地球のや学術教育二点あり「哲学喜び」「御友神学」
十九 核投下懺悔なしたるオバマ氏の平和スピーチ今や活くべし
二十 オバマ氏や平安ありて平和なる人類(ひと)コア矛盾懺悔友抱く
(備考:復唱)
二十一 創作用そも究極事性(さが)なるや無自性なるに大悲事(じ)に寄す
(備考:復唱。この形而上学歌、あらゆる「偽究極的形而上学」に抗し、「原爆投下」に形而上学的事理皆無と宣言するや、うべなり)
二十二 哲学の喜びありて御友学捧げて脱核文明の秋
〇(23日)神溢るるやの歌十四首
一 イマヌエル原受肉をぞ孕めるや原事実そも神溢れけり
二 あるとはやあらしめられてあることぞ先達の言誠麗し
(備考:「それゆえ、存在者が存在するとは、まさにこの無限・絶対・永遠なるものの自己否定(アガペー)として、はじめて現実に存在するのであるから、そ れなくしてたんに有限・相対・時間的存在者のみが存在するということはありえない。現実にわれわれがこうして存在するのは、それを現実にあらしめているものが「あ る」ことを意味する。換言すれば、われわれが「ある」のはあらしめられてあることにほかならない。」小野寺功『聖霊の神学』横浜・春風社、2003年、278頁)
三 人がぞやあらしめられてある時や心内にて震へるやげに
四 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば
(備考:復唱)
五 我がぞや詠ひし汝の歌をぞや誠汝とし学び生くるも
六 奇しくもやかかる事げに起こりてや我歌に活く嬉し嬉しも
(備考:初めの「嬉し」や妻の声、次の「嬉しや」我が歌の声)
七 歌こそや誠溢るる妻の笑み御友ありてぞ溢るとぞ言ふ
八 我在るや詠ひてこそや述ぶるかなただ在る知るやこれ社会教
九 ただ在ると言ふ時汝やCogitoなし震へなき事これ社会教
(備考:デカルトのCogito「我思ふ」言ひしは誠「あらしめられてある」感じては思ふ事歌と同じよ)
十 我在るや在らしめられて在ると述ぶ震へる心歌心げに
十一 これやしもインマヌエルの原受肉原事実内溢る響きぞ
十二 原事実実存根底その底に我や詠ふや神溢れます
(備考:サルトルが絶対の即自存在を超ゆるものに就きて「神を信ぜぬが、聖霊は信ず」と『言葉』で言ひしこと、想起なすなり。『ヨハネ』1・1・第二 項「ロゴス神共」(pros ton theon)が同第一項「太初のロゴス」(滝沢の「原事実」)に「原受肉」成す時「神溢る」と、我言ふや、聖霊なり。こ れ、内三位一体的神性が、原事実にて「原受肉」成す時の表現なり。「神溢る」の「神」、神の「三位一体的全体性」としての聖霊なり。ホワイトヘッドは、この消 息を、”The definiteness of fact is due to its forms; but the individual fact is a creature, and creativity is the ultimate behind all forms, inexplicable by forms, and conditioned by its creatures.” [PR, 20]と解明するなり。ここの消息、我が「社会教に歌 無し」と言ふ時の含意と通ずるなり。社会教は、思ふに、様々なる性質を論ずるところに成立する人類の在り方なり。形而上学的意義における人類(ひと)は、これ と異なりて、ホ氏の言ふ「創造作用の被造者」の境位において直接に在るなり。社会教の人々ここを見ず、ただ「様々な性質、性格」にだけ関心あり。かかる関心を超ゆ る処に、歌発す。なんとなれば、其処に神溢れたまふべければなり。
十三 創作用そも究極事性(さが)なすや無自性なるに大悲事(じ)に寄す
(備考:復唱。この拙著の末尾を飾る我が形而上学詩、歌の本分を全うするものなり、即ち社会教を超脱す。恐らく、人類が社会教を脱して、究極事(the individual fact is a creature of creativity, inexplicable by forms.)の「事」 (じ=一々の被造者)に寄する大悲に注目するまで、核時代を脱却する事甚だ困難なり。人類に「天地の子」の自覚なく、社会的優位性の関心に囚われ居る故なり。拙 著『平安ありて平和なる』で高調する「平安」とは前者なり、後者に非ず、以下の如し)
十四 オバマ氏や平安ありて平和なる人類(ひと)コア矛盾懺悔友抱く
(備考:これ、拙著の巻頭の歌なり)
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