先日、私が出講している立教大学で、夏休み前最後の演習の後
ゼミの学生と一緒に句会をやりました。参加者は、20歳前後の学生ですから、
年齢から云えば私の息子や娘の世代、何か若返ったような気がしました。
学生二人に幹事役になってもらい、選句と選評を記入させ
俳句には付句、短歌には返歌を書いてもらいました。
自分の作品が、他の人にどのように受けとめられたかその場で
披講されるという経験が、学生達には大変に新鮮で興味を惹かれたようです。
殆どの学生は句会は初経験、それどころか、そもそも俳句や短歌を作るのも
初めてと言うことだったので、遊浦の12回句会の句をお借りして
選句と選評の仕方など説明しました。
遊浦句会から、学生のためにお借りしたのは、裕雪さんの句結婚といふ最後のカード花火揚ぐ
です。この句、若い諸君がどう読むか、たぶん私などとは違った解釈が出るだろう
と思ったわけです。
以下は学生達のこの句に対する感想です。
*つきあっていた彼からとうとう結婚を申し込まれた。万歳!と叫びたい気持ち(とうこ)
*なかなかウンと言ってくれなかった彼女が、結婚という切り札を出したらやっと承知した。(正幸)
*結婚を申し込んだのに彼女に断られて、やけくそになった気分が、
花火に良く現れている(誠一)
上の三つの解釈は、この句を作者が自分の気持ちを詠んだもの(人情「自」)と
とっています。
男子学生は女性に結婚を申し込んだときの気持ち、
女子学生は男性から結婚を申し込まれたときの気持ち、と解釈したようです。
遊浦の選評で私が書いたように、婚期の遅れた娘を嫁にやった親の気持ちと
するような解釈はさすがに学生諸君には一つもありませんでした。
裕雪さんも自作解題で書いておられたのですが、一つの句も、その場と人をどの
ように見定めるかによって様々な解釈が生まれることがあります。原作者が全く意図しなかった読み方がされると戸惑われることがあるかも知れませんね。
私は、こういう場合は、「曖昧さ」と「多義性」を区別して使うことにしていま
す。多義性は、句の場と人を見定める仕方が複数あっても、どれも解釈として面
白い場合をさし、「曖昧さ」は、句がどのようなコンテキストで詠まれたか見定
め難いために、印象が散漫になってしまう場合をさします。
要するに、「曖昧さ」は避けて、最も適切な言葉遣いを選ぶべきですが、「多義
性」は必ずしも忌避すべきでないし、場合によっては句に余情と陰影を持たせる
ことがあると思います。
連歌などでは、むしろこのような多義性を積極的に生かして前句の読み替えを自
由に行うことによって流れに変化が生じます。一句で完結する俳句の場合には、
多義的な句を許容すべきかどうか意見が分かれるかも知れませんね。
立教大学の句会で出た俳句とその選評を例にとります。
ほとばしる汗鮮やかに大輪の花 (とうこ)
*夏のなか汗(水気によるつゆ)を茎に付けた草花が必死で延びている/(正幸)
*今何か頑張っているのでしょうか、花を咲かせることができると良いですね。/(実)
*炎天下庭木の手入れをしている植木屋さんを詠んだ句と思いました。/(ひろし)
この句、作者に聞いてみますと、
*「大輪の花」は、向日葵のような夏花のことではなくて、実は花火のことです。
花火職人が汗みどろになっているところに花火が光った情景を詠みました。(とうこ)
とのことでした。もし作者が「花火の情景」であることをはっきりと伝えたいの
なら「大輪の花」という曖昧な言葉は避けた方がよいと思いました。
ただ、私は、基本的に学生の句を添削するという考えはありませんので、
つぎのようなコメントを伝えました。
*花火だということをハッキリさせたかったら次のようにする手もありますね。
「大花火ほとばしる汗鮮やかに」 /(東鶴)
もう一つ、今度は、多義性がかえって読者に様々な連想を呼び、それが句の面白
さにつながっている実例を挙げてみます。
はるさんの七言折句をお借りして、学生達に感想を書いてもらいました。
手花火に心も散るか夏の恋 (はる)
*移る火種と移らぬ心。あの人は私の気持ちをちっとも分かってくれない、焦
れったい気持ち。/(廣辞)
*この花火のように私の夏の恋も終わってしまうのだろうか。心が痛い。/(さゆり)
*サークルの夏の合宿で、思いを寄せた先輩へ。サボテンの花もいつかは枯れる。
失恋した寂しさ。/(とうこ)
この句の場合は、三者三様の読み方をしていますが、どれも面白いと思いました。
一つの句も、読み手の人生経験、個性の違いによって、様々に解釈されます。
作品を読むことも創造の一つと考えれば、誰も考えつかなかったようなあたらし
い意味を読み手のほうが発見することも大いにあり得ますし、それを聞かせてもらうのも句会の醍醐味の一つでしょう。
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