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第一部 復生の文学


(1)短歌―明石海人「白描」について

 

昭和十二年に改造社が明治・大正・昭和三代にわたる新万葉集全十一巻を企画したときに、一人二十首以内で公募があった。昭和十三年に出版されたその第一巻に、ハンセン病療養所長島愛生園の明石海人の歌が十一首入選している。      

皇太后陛下、癩患者御慰めの御歌並びにお手許金御下賜記念の日、遙かに大宮御所を拝して
そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる
みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし
   
父の訃、子の訃共に事過ぎて月余の後に来る。帰り葬はむよすがもなくて

送りこし父がかたみの綿衣さながら我に合ふがすべなさ
童わが茅花ぬきてし墓どころその草丘に吾子はねむらむ
世の常の父子なりせばこころゆく嘆きもあらむかかる際にも
たまたまに逢ひ見る兄や在りし日の父さながらのものの言ひさま(面会)
梨の実の青き野径に遊びてしその翌の日を別れきにけり
子を守りて終らむといふ妻が言身には沁みつつなぐさまなくに
監房に狂ひののしる人のこゑ夜深く覚めて聞くその声を (病友)
   
眼神経痛頻りに至る。旬日の後眼帯をはづせば視力すでになし
拭へども拭へども去らぬ眼のくもり物言ひかけて声を呑みたり
更へなずむ盗汗の衣やこの真夜を恋へばはてなしははそはの母よ

この第一首と第二首は、救らい事業を推進した皇太后の御恩に感謝する歌で、当時の療養所の短歌会では毎年のように兼題として出されていた。貞明皇太后は、昭和7年11月10日、大宮御所の歌会で、「癩患者をなぐさめて」という兼題をだし、自ら


    つれづれの友となりても慰めよゆくこと難きわれにかはりて


という歌を詠んでいた。海人の歌は、この皇太后の歌に対する返歌であると見て良い。


 この歌は発表当時評判となり、のちに長島愛生園の歌碑にも刻まれ、また当時の国の救癩政策の柱であった「皇室の仁慈」にいかに療養所の人々が感謝しているかを示すために縷々利用されることとなった。戦後は、その反動であろうか、「幻の明石海人」という評論を書いた光岡良二も「慟哭の歌人」を書いた松村好之も、ともに、晩年の海人の歌を代筆した伊郷芳紀の証言を引用しつつ、この歌の「儀礼的性格」を強調し、海人の代表作とは見なしていない。たしかに、海人自身が編集した「白描」では、この歌は療養所の生活を綴った多くの歌の中の一つとして扱われ、特別に巻頭に於かれているわけではない。


 
しかしながら、戦前戦後のイデオロギーや価値観の劇的変化なるものを括弧に入れて、この歌自体を眺めてみると、単なる「儀礼の歌」として片づけられないものがある。皇太后からの「御恵み」を感謝する返歌は療養所の歌人達によって数多く詠まれているが、海人のように「癩者に生れて我が悔ゆるなし」と力強い「万葉調」で堂々と言い切った歌は殆ど無い。これは皇室の恩恵をひたすら受動的に有難がっているような感謝の歌では決してない。この下の句は、返歌という儀礼を超えて、海人自身が自分の運命を積極的に受容した宣言のように思われる。海人は、のちに、歌集「白描」の序文で、

    
癩は天刑である。

加はる(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき捜って一縷の光を渇き求めた。

― 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何處にも光はない ―

さう感じ得たのは病がすでに膏肓に入ってからであった。

齢三十を超えて短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞(べんぶ)しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。

 

癩はまた天啓でもあった。


と書いたが、「癩者に生れて我が悔ゆるなし」という大胆な言葉を海人に言わせたものは、皇室であれ誰であれ、他者から与えられた恩恵への感謝という以前に、それに絶対的に先行していた、「自らが燃えなければ何處にも光はない」という海人自身の魂の奥底からの叫びであったろう。


 
昭和一二年に改造社によって企画され、昭和一三年に第一巻が出版された新万葉集は、明治大正昭和の代表的な短歌を収録している。審査員と当時まだ活躍していた著名な歌人には新たに五〇首以内の自薦歌の投稿が求められ、物故した歌人のよく知られた歌も縁故者によって提出された。


 
明石海人の歌は、第一巻に収録されている。この巻に収録された他の歌人の歌をあげると、石川啄木は、「東海の小島の磯の白砂に我なきぬれて蟹とたはむる」をはじめとする五十首、伊藤左千夫は「牛飼が歌よむときに世の中の新しき歌大いに起こる」をはじめとする五十首がある。また、歌人とは言えないが、芥川龍之介の短歌も収録されているなど、プロの歌人に留まらず、様々な職業や背景を持った人が、それぞれの自己の世界を表現している。この歌集の特徴は、作者ごとに複数の短歌が収録されているので、新万葉集という大宇宙の中に、一人一人の作者の小宇宙があるというような印象を受ける。


 
ただし、いわゆる有名歌人の歌の織りなす小宇宙は、かならずしも生彩があるとは言えない。たしかに一首一首は人口に膾炙した歌であるが、五〇首を並べてみても、そのあいだに作者の人格から放射するような統一性を必ずしも感じない。これは、とくに新作を投稿した有名歌人の連作についていえる。


 
新万葉集の聊か精彩を欠く職業歌人の歌群のなかにあって、海人の連作短歌のなかには、はるかに切実にして緊密な統一がある。これは、海人が最晩年に出版した歌集「白描」の場合は、さらにはっきりと言えることであるが、何度も推敲し磨き上げられた作品のみが持つ統一が、作者の個の一貫性がつよくでている。海人の短歌には叙事詩的な情念のうねりがあり、それが読むものに地底から響くような情念のカタルシスを与える。これまで、日本の歌人で、このような、すぐれた悲劇作品のみが持ちうるようなカタルシスと存在の真実を詠い得た歌人、「白描」序文に見られるような自己自身への思索と詩的世界を統一した歌人がどれほどいたであろうか。
  「白描」は、次の歌から始められている。

 

医師の眼の(おだ)しきを()ふ窓の空消え光りつつ花の散り交ふ

 

春たけなわの頃、自然が生命力に満ちあふれ、桜の花の美しさに惹かれて大勢の人が行楽にくりだす季節に、海人は東大病院で診察を受け、医者の穏やかな眼を追いながら診断の結果を聴く、そのつかの間を捉えた歌である。この歌が「白描」の巻頭。そして、この歌を口述筆記した伊郷芳紀の回想に寄れば、この歌の姿を定めるのを海人は最後まで引き延ばしていたとのこと。「歌集」の最初におかれた歌は、実は、最後にそのかたちを与えられたのである。

 

「不治の病」という宣告を受けたとき、これから自分はどのようにすればよいのか。どうしようもないではないか。海人の短歌に頻出する「すべなさ」(どうしようもなさ)ということばに象徴される運命的な事実がはっきりと告げられる、その直前の光景である。これに続く歌との関わりだけを見れば、いかにも人生の無常、不条理、真昼の花の輝きの中に突如侵入した暗黒を描くための序奏のようにもみえるが、この歌は、決してそのような側面だけから見られるべきものでない。

 

この巻頭の歌は、「癩者」としての彼の生の始まりを意味するだけでなく、「白描」におさめられたすべての歌を、その生の始まる直前の一点に収斂させるような働きを持っている。そういう自分自身の過去の一瞬を回想において遡りつつ描き出そうとしている海人自身は、どういう状況にあったか。彼を診断し、喉の切開手術を担当した内田守医師の言葉によれば、「およそ癩者が死ぬまでに経験しなければならない一切の苦しみを引き受けている」凄絶な状態にあったとのこと。カニューレ(呼吸補助のため喉につっこんで使用する器具)をとおしてかすかに判別されるような嗄れた声で、最後の力を振り絞りながら、伊郷に口述していたのが、この歌である。

 

伊郷によると、「白描」の歌をまとめあげ、原稿の発送の間際まで、海人は巻頭歌の下の句を「消え光りつつ花の散り交ふ」にするか「さくら白花真日にかがよふ」にするか、決めかねていたが、次のように云って、前者に決定したとのことである(松村好之著「慟哭の歌人」による)。 伊郷が伝える海人の言葉は以下のようなものであった。

 

「さくら白花真日にかがよふ」では真日にかがよふているにしても、花がじっと停止して日光を受けている、いわば静の風景だ。「消えひかりつつ花の散り交ふ」だったら、花は生きて爛漫と咲き、やがて生命を終えて散ってゆく・・・・散り交ふ花びらに生きた感情の生動を実感する。「散り交ふ」に決めよう。

 

散る桜に、単なる無常ではなく、存在と生命の充足による死を彼が見ていたことがこの言葉から分かる。「花」は日本の和歌の伝統では特別の意味を持っている。西行の和歌にとってそれは日本の風土、そこにいきる人々の心のあり方の象徴でもある。本居宣長の云う大和心もしかり。海人には桜の花を詠んだ次の歌もある。

 

      さくら花かつ散る今日の夕ぐれを幾世の底より鐘のなりくる

 

長島愛生園をついの住処と思い定め、ハンセン病者としてその地で生を終えることを受容しなければならない境遇にありながらも、春になれば、日本の自然の美しさを見、日本の悠久の歴史に思いを馳せることができる。そういうとき、桜の花を詠んだ幾世代もの日本人の心を自分自身のうちに実感することがあったであろう。この歌は、海人の故郷、沼津の千本松原に歌碑として刻まれている。「幾世の底より」という言葉が、この歌に日本文化の基底を流れる桜花への想いを感じさせる。幾世の「世」は、悠久の歴史を表すが、その「底」という言葉は、地底より響き渡るような日本文化の深層を感じさせる。

 

(2)小説―北條民雄の「いのちの初夜」とその後

 

ハンセン病療養所で書かれた文藝作品として、明石海人とともにもっともよく知られているのは北條民雄の小説「いのちの初夜」であろう。 そのなかに、療養所に入所したばかりの患者であり、療養所での「最初の一夜」に重病棟の患者と共に過ごした衝撃がさめやらぬ主人公の青年尾田に、重病棟の付添をしながら文藝の創作をしている佐柄木という年長の青年が、病苦になすすべもなく死の床にある重病棟の患者達を前にして語るつぎのような一節がある。

 

僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。

けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか。

 

「ハンセン病文学全集」の小説の部を編集した加賀乙彦は

 

「いのちの初夜」こそ、北條民雄の最初の優れた小説だということになる。この作品は、今回の『ハンセン病文学全集』の小説の中でも第一等の秀作である。作者自身も、多くのハンセン病小説家も、これを越える作品を書けなかったのは、不思議だが、事実がそうなのだから仕方がないというのが私のつぶやきである。(中略)

かつて日本の近代文学にこれほどの深い絶望、これほどの極限にまで苦悩した文学があつたであろうか。この作品を今度の文学全集の冒頭に置くことには、十分な意味があると私は考えている。

 

と言っている。この小説のなかで、佐柄木という人物は非常に印象的に描かれているが、おそらく、それは北條民雄が療養所で文藝活動をしていた諸先輩達から受けた印象をもとに、みずからのあるべき姿として造形した者と言って良いであろう。

昭和11年2月に「文学界賞」を受賞した「いのちの初夜」は、一躍北條民雄の名前を文壇に知らしめることとなったが、北條自身は、その文学的成功を必ずしも喜ばなかったことが、友人達の証言によって知られている。

北條民雄は、文学界賞受賞後の作品として、100枚を越える長編を二篇書いている。しかしながら、これらは、いずれも公表されず、彼の死後に刊行された北條民雄全集にも収録されていない幻の作である。しかし、川端康成の「いのちの初夜」跋から、我々は、その作品のあらましを推測することが出来る。

 

その一は「いのちの初夜」にひとたび得た生命観をさらに深く懐疑否定し、その彼方に光明を探ろうとするものであった。その二は、社会運動に携わってゐた青年が、さういふ世と切り離された癩院に入って、尚、プロレタリアの為に反省苦悩し腐れゆく身であくまでもその社会理想を信じて生きるものであった。

 

この二作とは北條の川端康成宛の書簡(昭和十一年六月十日)によれば、「ただ一つのものを」と「監房の手記」である。どちらも、作者の生死を賭けた作品というべきものであり、北條はつぎのように自分の心境を川端に述べている。

 

この作(監房の手記)には、ほんとに命を賭けました。書き始めるとき、それまで手許にあった長編の書きかけも、短編の書きかけも全部破り捨てました。これは遺書のつもりだったのです。これが書きあがったら死のう、と決心して筆を執りました。けれども書き進むうち、死んではならないことだけが分かりました。死ぬつもりで書き始めながら、書き終わった時には、生きることだけになりました。進歩か転落か、それは分かりません。ただ、先生の御評を頂きとうございます。「いのちの初夜」を書いた折、生か死かの問題は解決がついたかのようにお手紙しましたけれど、あの場合はほんとに解決したつもりでいましたのですけれど、つぎつぎと襲ってくる苦しみはあの解決をぶちこわしてしまいました。(中略)それからこの作は検閲をうけずにお送り致します。検閲をうければ、発表禁止にされてしまうのです。それで検閲なしで発表して、僕はこの病院を出る覚悟に決めました。富士山麓の復生病院の院長岩下氏が僕の「いのちの初夜」に感激したと申されて、先日フランスのカトリック司祭コッサール氏が参りましたので、その人の紹介で右病院に入る予定です。自分にとっては、小説を書く以外になんにもないのに、その小説すら思うように書いてはならないとすれば、なによりも苦痛です。検閲証の紙を一しょに同封して置きますけれど、實に激しい屈辱感を覚えます。一つの作に對してこれだけ多くの事務員共の印を必要とするのです。[3]

 

「監房の手記」は検閲を無視して密かに川端に送った作品で、このとき北條は官立の癩療養所の内部で「癩になりきって生きる」ことを欺瞞であると考え直し、自殺を覚悟のうえで多磨全生園を飛び出し、カトリックの施設へ逃げ込むことを考えていたことが分かる。岩下壮一が自分の文学の理解者であると聞いたこと、カトリックの神山復生病院は友人の詩人東條耿一が嘗ていた病院なので、そこへ移れば、多磨全生園よりは小説執筆に自由な環境が得られると考えたのだろう。

結局、このアイデアは実現しなかったが、北條が官立の療養所という閉鎖された場所―強制収容所という一面をもっていた−で文学活動をすることにいかに疑問を抱いていたかが分かる。

病院に監房があることが官立の癩療養所の特徴であった。全生園はもともと放浪する患者を強制的に収容する監獄として建設されたので、初代院長は警察官あがりであった。1931年度以降、一般の患者を収容するようになってからも、そのシステムは基本的に同じであった。 のちに全生病院の院長となった光田健輔がまだ医長であった時分に、すでに「院長が患者を検束し懲戒することは違法である」とのべて抵抗した患者がいたことが報告されている。(内田守の回想)

そういう監房の中に閉じこめられた社会運動家の苦悩を描いた「監房の手記」が検閲を通るはずがないし、そのようなものを書いたと言うことが発覚すれば、北條自身が処罰されたであろう。したがって、北條は、自分の作家としての生命を賭けてこれを書き、川端に送ったということがわかる。川端は、検閲の厳しい当時の出版状況を考慮し、また北條の作品自体、まだ大いに推敲の余地有りと判断したので、結局、これらの作品は発表されず、原稿も残ってはいないが、北條自身が真に書きたかった作品がいかなる種類のものであったかを我々に教えるであろう。彼は自分の作品が「癩文学」として読まれること、特異な環境にある特異な生を描いたものとして読まれることに反対であった。自分は文学そのものを書いているのであり、「癩文学」などというものが特別にあるわけではない−これが北條の信念でもあった。

創元社から出版された北條民雄全集では、彼の日記が収録されているが、これは、療養所の雑誌「山桜」に北條や彼の友人である東條耿一が発表した作品と共に、当時の療養所の内部を活写すると共にかれらの内面生活を伺わせる貴重な文献である。

とくに「山桜」という機関誌は、官立の療養所を管理する国の基本的な思想を浸透させるために刊行されていた雑誌であるが、そこには文芸欄が設けられ、詩歌や俳句、小説などの創作の発表も許されていた。患者が療養所の医療政策に対して批判がましいことを述べるような言説は、原則として、事前検閲によって掲載されては居ないが、昭和12年1月、すでに腸結核を併発して病床にあった北條民雄は、「井の中の蛙の感想」と題する分を寄稿している。この文は、前年の昭和11年8月の「長島騒擾事件」に言及して、ストライキをした患者達を「井の中の蛙」と批判した日本MTL(mission to lepra という当時の「救癩」団体)理事の塚田喜太郎の文章に対する反論である。

「長島事件」については、ハンセン病問題に関する検証作業の一環として現在ではその状況が解明されている[4]が、当時国家的なキャンペーンとして行われていた「無癩県運動」のために、国立療養所愛生園が定員を大幅に超過し、患者の医療・生活条件が極度に悪化したために起きた患者の作業ボイコット事件であった。[5]

塚田は次のように書いている。(昭和十一年 「山桜」10月号)

 

井の中の蛙大海を知らず、とか。実際、井の中の蛙の諸君には、世間の苦労や不幸は分からないのであります。(中略)蛙は蛙らしく井のなかで泳いでいればよいのであります。また、大海も蛙どもに騒がれては、迷惑千万であります。身の程をしらぬといふことほど、お互いに困ったことはないのであります。(中略)患者諸君が、今回のごとき言行をなすならば、それより以前に、国家にも納税し、癩病院の費用は全部患者において負担し、しかる後、一人前の言ひ分を述ぶるべきであると。国家の保護を受け、社会の同情のもとに、わずかに生を保ちながら、人並みの言い分を主張する等は、笑止千万であり、不都合そのものである。

 

塚田のこの見解に対する北條のコメントが、翌年の山桜の一月号に「井の中の正月の感想」と題して掲載されている。


 諸君は井戸の中の蛙だと、癩者に向かって断定した男が近頃現れた。勿論、このやうな言葉は取り上げるにも足るまい。かやうな言葉を吐き得る頭脳といふものがあまり上等なものでないといふことはもはや説明の要もない。しかしながら、かかる言葉を聞く度に私はかつていったニイチェのなげきが身にしみる。「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知ってゐるか、汝を軽蔑する者に対しても公正であれ、といふ公正の苦悩を知ってゐるか」
 全療養所の兄弟諸君、御身達にこのニイチェの嘆きが分かるか。しかし、私は二十三度目の正月を迎えた。この病院で迎える三度目の正月である。かつて大海の魚であった私も、今は何と井戸の中をごそごそと這い回るあはれ一匹の蛙とは成り果てた。とはいへ、井のなかに住むが故に、深夜沖天にかかる星座の美しさを見た。大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座が判るか、深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであろう、況や−

 

40年以上経過した後からであるが、津田せつ子は、「北條さんの思出」というエッセイの中で、この文を引用し、「いまのように、職員や社会人に自由にものがいえる時代とは違い、すべてが検閲制度で束縛されていた時代であったから、私はずばりと言い得たその勇気に感動した。清涼剤に似た清々しさで思い起こされる。そして北條さんは若かったなといまにして思う。あのいきりたつ若さは古い患者にはもてない感覚である」と回想している。[6]

 

北條民雄が昭和12年に腸結核で亡くなった後で、川端康成は彼の遺稿や日記も蒐集して、創元社から北條民雄全集を刊行したが、そのことは必ずしも療養所の管理者にとって歓迎すべき事ではなかった。 北條民雄が昭和12年に腸結核で亡くなった後で、川端康成は彼の遺稿や日記も蒐集して、創元社から北條民雄全集を刊行したが、そのことは必ずしも療養所の管理者にとって歓迎すべき事ではなかった。 たとえば、北條民雄日記の中にもたびたび登場する療養所の医師日戸修一は、次のような文を、全集刊行後に書いている。[7]

 

しかし、検閲するものがどうであろうと、とにかく国家が養って国家が食はせて衣食住すべてを心配しそのかげに癩を早く撲滅しやうといふ目的があるんだから、この目的に不利なものはどしどし取り締まってゆくのが当然の話で文句を言ふほうが間違ってゐる。(中略)文学なんか癩の撲滅事業のためにはおよそ屁の訳にもたたない。まして北條のやうな変な反抗ばかりしてゐるものには検閲制度は当然必要なんだと思ふ。(中略)ああいふ全集(北條民雄全集)を余り思慮なしに出した川端康成氏等の軽率な罪はとにかく非難してもいい。あまりいい癩文学などは実際からいふと必要はない。黙って患者を収めて、ぢっとして消滅する日を待てばそれでよからうといふものである。予防協会あたりは一人でも多く患者を収容できるやう費用を出せばよいので変なパンフレットや文学の話などは絶対にしない方がいいといふものである。必要なのは癩のなくなることだ。だつて一向に癩がなくならないではないか。

 

この日戸の文は、当時としても極端な意見とみなすべきものであろうが、官立の療養所で営まれていた文藝活動の困難さを我々に伝えるものである。北條民雄の日記には、彼が、療養所文學−当局の管理のもとで、慰安と教化の方針のもとに編集された文学−を如何に嫌っていたか、また、自分の文学をそのような意味での「癩文学」として読まれることを拒絶していたか−そういう記述が随所に見られる。そして、そういう北條のいわば「本音」の部分は、戦前に公刊された全集では、多くの場合、伏せ字とされていたために理解不可能なものとされていたことに注意したい。

たとえば、昭和12年度の北條民雄日記には、次のような文がある。[8]

 

1月28日。民衆から・・・・[9]を奪ったら何が残るか。なんにも残りはしないのだ。彼等はこの言葉の中に自己の心の在り場所を求めようとしてゐる。それは何千年かの間に築かれた××であるにしろ、しかし彼等はこの・・・・[10]によって、心の安定を得てゐるのだ。それは国家そのものに対す態度である。現在の彼等にとっては、これのみが残された唯一の・・・・[11] なのだ。重要なのはこの点だ。

2月1日。夜、光岡良二来る。十時近くまで語る。一七歳のとき、・・・・[12]の洗礼を受けた自分は、一切の「権威」といふものを失ってしまひ、そのために心の置き場なく揺らぎ続けてゐるのだ。彼は形而上のもの、即ち神を持ってゐる。しかし自分には神はない。人間すらも信じきれぬ。

 

この北條日記(昭和12年)には、療養所の検閲制度への批判、マルクス主義への共感、天皇が民衆の偶像であることを記した記事等があるので、日記を預かった友人の東條耿一は、当局に没収されることをおそれ、総てを書写したうえで川端のもとに送り、もとの日記を手元に置いていた。創元社の全集では問題の箇所はすべて伏せ字にしたうえで公表された。この自筆日記は、東條耿一の妹の津田せつ子より某カトリック司祭の手にわたり、戦後しばらくのあいだ行方が分からなかったが、1993年になって漸く高松宮記念ハンセン病資料館開設に際して、(還俗した)この司祭より返還され、時在は、ハンセン病記念館に展示されている。

 

(3)詩―北條民雄の「いのちの友」東條耿一とキリスト教

 

昭和12年2月の「山桜」には、北條民雄がその日記の中で「いのちの友」と呼んだ東條耿一の「初春のへど」という文章が掲載されている。昭和12年1月の「山桜」には、北條民雄の「井の中の正月」がでていたことを考えると、この文も又、昭和11年の「長島騒擾事件」、ストライキをした患者を「井の中の蛙」と批判した塚田喜太郎の文章に露骨に見られるような療養所の文藝の「あり方」に対する根本的な批判であるという、そういう文脈の中に置いて読むことが出来る。


 塚田喜太郎が昭和十一年の山桜に発表した文と、それに反論した北條の「井の中の正月」という文は、所謂療養所文藝がいかなる時代に如何なる状況の下で書かれていたかを知る重要な資料である。この時期の東條耿一と北條民雄の文学に対するスタンスは非常に近いという印象がある。


「文学をしなければ生きられないが、同時にその文学を軽蔑せずにはいられない」というジレンマに二人とも直面していた。それは、北條民雄の日記の中にはっきりと現れている。とくに療養所文學ー当局の管理の中で、慰安と教化の方針のもとに編集された文学−の限界を彼等は感じていたはずである。


 北條民雄は、マックス・シュティルナーの「唯一者と所有」一冊をもって療養所の外に飛び出し、自殺を常に念頭におきながらの放浪の後で、どうしても死にきれずに療養所に舞い戻り、再び文芸の創作に戻る。しかし彼は、心身の疲労から腸結核になって、昭和12年から重病棟に入る。こういう北條を東條耿一は側にいて、つぶさに見ていた。この時期のふたりの文章に、このシュティルナーとニーチェへの言及が見られるのは、この西欧の思想家の書いたものに共感するものがあったからだろう。「初春のへど」は様々な二律背反に苦しむ東条の分裂した姿を提示している。

 

東條耿一が「初春の反吐」のなかでいっている「義務の文学」とは聞き慣れない言葉である。もっと分かりにくいのは「現実の負担を軽くする義務」という言葉であろう。何かを東条はそういう言葉で伝えようとした。誰かの思想、たとえば悲劇の哲学、不安の哲学を説き、ドストエフスキーとニーチェを論じたシェストフの本などの影響があったのかも知れないが、あくまでも東條自身の生の文脈に即して、この言葉の意味をもういちど考えてみよう。


 「現実の負担を軽くする権利」と言うのならば、現代の我々にはわかりやすい。病人には、病苦を軽減する措置を療養所に求める「権利」がある。しかし、東条は「権利」ではなく「義務」といっている。底本を確かめてみたが、これは誤植ではない。
 すると「現実の負担を軽くする義務」というのは、どういう意味か。それは文学作品、詩歌の世界に逃避して、慰めを得るということでは決してないだろう。それでは「慰安の文学」になってしまい、北條や東條がもっとも唾棄したものとなってしまうだろうから。


 おそらく、「現実の負担」は、そこから逃避することによっては、決して解決されない、それを軽減するためには、その負担を負うことを自らの義務として引き受ける事によってのみである、という決意のようなものが、そこで語られているのではないか。


 私は、この「義務」という言葉の使用そのものに、外的な権利主張とは異なるもの、きわめて内面的なもの、彼自身に固有なものにたいする責任、あえていえば「自己の存在に対する責任」を感じる。北條民雄も又、川端康成宛書簡で次のように言っている。

 

この作、自分でも良く出来ているような気がしますけれども、また、大変悪いんではあるまいかと不安もございます。結局自分では良く判断が出来ません。けれど、書かねばならないものでした。(中略)先生の前で申し上げにくいように思いますが、僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。文学するよりも根本問題だったのです。生きる態度はその次からだったのです。

 

「最初の一夜(いのちの初夜)」は、自分の生死を賭した問題に迫られて、「書かなければならぬ」ものであるから書いたと、北條ははっきりと言っている。文藝作品としての善し悪しなどは、二の次であった。北條のこの代表作こそ、彼が自分の存在に対して責任を負い、そこから逃避せずに、負担に満ちた現実を真正面から引き受けて書いた作品、東条の言い方を借りれば、「義務の文学」の初心に貫かれた作品のように思われる。
 更に、この「初春のへど」で注目されるのは、三好達治の詩を引用して

 

君よ、この詩を心ゆくまで味わつて見給へ。この一篇の作品の中に、清澄な音楽と、渺茫とした味はひが如何に巧みに秘められ表現されてゐることだらう。この詩の情操してゐるものは作者がその心の中に、魂のもの侘しい薄暮を感じ、頬白の啼いてゐる風景の中で、その心に擴がつて來る薄暮の影を、侘しく悲しげに凝視してゐるのである。

 

と書いているところであろう。東条はこういう三好の様な詩を書くことを目標にしていたからである。
 三好から東條が何を学び、それを自分の詩の世界で如何に展開していったかを知るために、まず「繍眼兒」という表題をもつ三好の詩を見てみよう。

     
繍眼兒(めじろ)よ 気軽なお前の翼の音 身軽なお前の爪の音
     嘴を研ぐ微かな剥琢(はくたく)日もすがら私の思想を慰める
     お前の唱歌 お前の姿勢  さてはお前の曲芸
     それら 願わくば なみされたお前の自由よ やがて私の歌となれ

昭和10年11月に四季社から刊行された「山果集」に収録された三好達治のこの詩の反響を東條耿一の作品集にたしかに認めることが出来る。三好達治からの詩法、ないし詩語の影響を受けつつ、東條はみずからの生活世界の直中に於いて、それを受けとめ、その意味するものを変容させ、新しい世界を造形している。ここでは、昭和15年に書かれた東條耿一の短歌「静秋譜」から、おなじく繍眼兒を主題とするものを紹介しよう。


  黐棒の尖端(さき)に小鈴をつけむ
小禽(ことり)来て宿らば忽ち呼鈴(べる)とならむか
  わが眼はや十尺(とさか)前方(あまり)はおぼつかな黐棒(はが)の小鈴の鳴りをし思ほゆ
  一枚の木の葉の如くぶらさがり繍眼兒は()に驚かずをり


黐棒(はが)というのは、メジロをつかまえる鳥もちの棒のことである。多磨全生園は当時も今も野鳥の多いところで、北條民雄も、とりもち棒で野鳥を捕らえようとする入園者の姿を短編小説に書いている。
 第一首は、その棒の先に小鈴を付ければ、それに小鳥がとまって「盲人を導く鈴」(盲導鈴)となってくれるだろう、という意味である。当時は、作者の目が悪化し、10尺前方もみえなくなってしまった、そのころの歌。
この短歌に出てくる繍眼兒(メジロ)は、三好の詩に於けるのと同じく、本来ならば大空を自由に飛び回る詩魂の象徴だろう。こころならずも療養所の不自由舎で盲目に近い生活をしなければならない当時の作者は、メジロに自分の姿を見ていたに違いない。


「願わくば なみされたお前の自由よ やがて私の歌となれ」という三好の言葉は、三好自身の生活世界の中で発せられた「言葉」であるが、それは、療養所で生活していた東條自身によって切実なものとして受容され、東條の世界に於いてあらたに生命を得て、その独自の心の世界の表現ともなり得た。 

 

昭和12年に病床にあった北條民雄に、東條耿一は「樹々ら悩みぬ」という詩を捧げている。(文末脚注参照[i]) この詩には「北條民雄に贈る」というサブタイトルが付いている。期せずして、追悼の詩にもなったが、この詩を書いた時点では、東條耿一は、まだ、北條が昭和12年の12月に急逝するということを全く予想していなかったと思う。東條耿一の詩の最後のスタンザでは、天頂高く皓々と照らす月の光のもとで天に向かって「翔け昇らん」とする樹々が、上への超越を目指す作者とその「こころの友」の象徴となっている。大地は二人の安住の場所では、もはやないにもかかわらず、その重力が強く「霊魂の飛翔」を妨げている−その二律背反的な苦しさが詠われている。


 北條民雄は、療養所からの脱出を試み、各地を彷徨したのちに療養所に戻り、昭和12年正月より重病棟に入った。それまでの彼の苦しみに満ちた試みを、仮に「水平的な脱出」というならば、それは不可能であった。
 日本の何処にも北條を受け容れてくれる場所はなく、彼は柊の垣根のなかに舞い戻らねばならなかった。この苦い挫折の思いは、外出許可をもらっても決して故郷には帰らなかった東條自身にもあてはまるだろう。彼らが安住できる場所は何処にもなかったのである。水平的な意味での「脱出」が閉ざされた場合、ひとは垂直的な「超越」をめざす。 西洋の詩の場合ならば、たとえばダンテの「神曲」。政治的に失脚し、行動の自由も未来への楽天的な希望も奪われたダンテは、地獄への下降と天国への上昇という垂直方向の超越に賭けて「神曲」を書いた。この大作の内容は、日常的な時間に翻訳すれば、纔か三日間くらいの出来事である。日常的な時間を縦断するような別種の時間意識がそこにあり、そのような時間に於ける、地獄から天国までの垂直方向への下降と上昇、その緊張を孕んだ運動による魂の救済が「神曲」のテーマである。


 東條の詩に於て、樹々が登攀しようとしている「月」は、天頂高く冴えわたった冬の月である。樹木は、武蔵野にはいまでも随所に見られる欅などの高木などを思わせる。深夜、その高木が、寒月に向かって身を捩らせている。作者はその樹木に向かって、さらに高きところをもとめて登攀せよと呼びかけている。この詩では、晩年の彼の手記に見られる様な、カトリックのキリスト教の復帰という様な具体的な形をとっているわけではないが、「月に攀じよ」という、「いのちの友」への呼びかけのなかに、読者は、東條の垂直的な超越への切実な志向を読みとることができよう。

 

 東條耿一は昭和15年に「閑雅な食欲」という詩を「山桜」に発表しているが、このタイトルそのものは、大正12年刊行「青猫」に収録されている萩原朔太郎の詩から借りたものである。表題が同じと言うことは、耿一が朔太郎の影響を受けたことを窺わせるが、その内容は非常に異なっている。そこで、この二つの詩を比較することによって、晩年の東條耿一の詩の世界の特質を考えてみたい。

 

光岡良二は、「昭和10年代の全生園作家達」というエッセイのなかで、全生詩話会で盛んに詩を発表していた頃の東條は「背徳的で、朔太郎やボードレールに傾倒していた」が「病勢が次第に進み、盲目になるに及んで、静謐なカトリック信仰に入っていった」と書いている。 「詩人から信仰者へ」という要約はやや図式的に過ぎるし、光岡自身が晩年の東條を直接には知らなかったということに留意する必要があるが、初期の習作時代に東條耿一が様々な詩人達の影響を受けたことは明らかであるし、とくに東條環や環眞沙緒子の名前で投稿した詩編には、「朔太郎やボードレール」の影響は確かに認められる。


 しかし、後期の詩群、とくにここで紹介した東條の詩には、「環」時代の詩とははっきりと異なった傾向が顕著になっている。初期の詩の特質は、自己が療養所で詩を書いていると言うことを否定するようなところがある。むしろ、療養所の現実を離脱し、様々な「仮面をつけて」詠うこと−詩的言語の世界のみに没入し、そこに虚構されたもうひとつの現実を生きること−が希求されている。これに対して、北條民雄がなくなった後に書かれた詩群においては、療養生活をしている自己の現実そのものを凝視し、そこに素材を求めることが多くなっている。


 そのことは、昭和15年に書かれた東條の詩「閑雅な食欲」にもよく現れている。嘗て彼が影響を受けていた萩原朔太郎の詩から、晩年の東條耿一の詩がどれほど隔たっているかを見てみよう。(文末脚注参照
[ii]


 朔太郎の詩「閑雅な食欲」の場合は、あくまでも、現実には存在しない「追憶の夢の中の珈琲店」での食事が、言葉によって造形されている。これに対して、東條耿一の詩の場合は、療養所での朝の食事の有様が、そのまま詠まれている。戦争直前の物資の欠乏している頃の療養所の食事がどれほど貧しいものであったか、我々は当時の記録から知っている。古米と麦飯、一汁一菜の貧しい食事、刑務所の場合と大差のないものだったであろう。それを朔太郎がかつて追憶の中で詠った詩のイメージを借りて東條は「閑雅な食欲」をもって「おろがみたい気持ち」で感謝とともに頂いている。


戦争中の食糧難の時代、飢えの体験、それらを直接経験でなく、あとから回想するのであれば、我々は過ぎ去ったこととして、懐かしむことも出来るだろう。追想の場合は、現在の直接性から距離を置くことができるから。東條の詩「閑雅な食欲」の特徴的なことは、そのような苦しい現実を、我々が過去を回想するときの様な平静さで、作者が受容していることではないか。ユーモアとは、「・・・にもかかわらず笑うこと」であるとは、ホスピスや緩和医療の臨床の中で思索されたデーケン氏の言葉であるが、そのような「逆境に於けるユーモア」をこの詩から感じる。


 私は朔太郎のオリジナルな詩よりも、東條の書いた「閑雅な食欲」のほうに惹かれる。詩の技法とかイメージの配合などの点では、たしかに東條は随所で達治や朔太郎から学んでいるが、東條の詩には技法以上のものがある。藝術作品には「意匠」も大切ではあるが、それ以上に、一人の人間が詩を書くときの根本的な視座のほうを問題にしたい。
  たとえば朔太郎の「閑雅な食欲」は、現在そのものを詠んでいるのではなく、「夢の様な追憶」の中で、ある意味で理想化され美化された過去の情景が詠みこまれている。これにたいして、東條の場合は、過去でも未来でもない、「現在」の現実そのものを強く感じる。ただ、その現在の現実とは、たんなる移ろいゆく現在ではない−すぐ過去になり、未知なる未来の不安に戦いている相対的な「現在」ではなくなっている。敢えて言うならば、自分の療養生活の一こまーこまの移ろいゆく姿を、東條は、揺れ動くこと無い「現在」−絶対的な「現在」−から、見ている。


     生きることが何がなし
    嬉しいことだと考へる
    死ぬことは生きることだと考へる


このさりげなく挿入された言葉に、私は惹かれる。とくに「死ぬことは生きることだと考へる」の一行に。

 

詩や小説の創作の中で、作者は「物語る」行為の直中に於いて自己を確認する。それは自画像を描く事に似ている。これは、自己の現実から逃避して詩の中に別世界を建立することで慰安を見出していた初期の東條の詩群にも、療養所の自己の生活を直視して、それをあるがままに詩の中に詠み込もうとした後期の東條の詩群にもひとしく当て嵌まる。その場合、描かれる自己と描く自己との関係は如何なる者であろうか。  

 

ここでは、彼が、療養所での直接体験を素材としたと思われる二つの物語−散文詩ともいえる−を比較することによって、物語的な自己同一性について考察してみたい。

 

比較のポイントは、自己が自己を物語る場合、物語る主体としての自己のあり方が、描くことを通じて新たに再生すると言うことである。とくに、作品の推敲ないし改作という事態を詳しく検討してみると、作者の旧い自己が脱ぎ捨てられ、新しい自己が生まれるその現場に立ち会うという、稀な事態にも出くわすことがある。作品の改訂ないし推敲のプロセスの中に、読者は物語の作者の自覚の深まりを読みとることが出来るからである。

 

我々が問題とする物語の一つは、「山桜」昭和12年10月号に掲載された「晩秋」で、これは同じ号に掲載された「夕雲物語」の続編になっている。

 

 東條耿一が昭和12年10月に「山桜」に発表した「晩秋」と、昭和16年6月に「聲」の発表した手記「鶯の歌」の最後の部分を比較してみたい。(文末脚注参照[iii]

 

 「晩秋」では「ハルちゃん」という女の子が、「鶯の歌」では、「三郎君」という少年に変わっている。このハルちゃんという少女には実在のモデルがいて、全生病院では評判の少女であったようで、北條民雄の随筆にも登場する。東條は、「鶯の歌」では、そういう、実在のモデルの登場するゴシップ的な内容になることを避けて、登場人物を孤児の少年に変えている。少女を少年にかえたことの理由としては、もうひとつ、新作に登場するこの少年がある意味で東條の分身であること、すなわち彼も又、東條自身の自画像でもあることを暗示しているのかも知れない。

 

 同一の素材が、4年後に異なる物語として語り直されるとき、それは作者自身の自己認識が大きく変容したことを意味している。たとえば、「晩秋」では、その最後のスタンザは

 

ああ肩の上の少女の聲に

しみじみと自省す はんぎやくの虚心・・・・・。

で終わっていたものが、「鶯の歌」では

少年は眞赤に燃えた夕雲を指して見せた。そして私が肯くと、肩の上に立上がるやうにしてバンザーイと叫んだ。私も大きく胸を張つて「ラボニ」と叫んだ。

 

と変わっている。(ここで、ラボニ(師よ)とは、新約聖書でイエスに向かって弟子達が呼びかける尊称の一つ) 短調で奏でられた「晩秋」の最後の聯が、「鶯の歌」では、一転して、肯定的な長調の協和音となってフィナーレを迎えたという印象を与える。 憂いに満ちた短調の「晩秋」が、力強い長調の調べをもつ「鶯の歌」へと変貌したこと、当然の事ながら、4年間の間に語り手である東條自身が変わったと言うことを意味するだろう。

 

旧い方の作品では、少女の子供らしい信仰の世界は、作者にとってはまだ疎遠なものである。いうなればおとぎ話の世界を少女に物語る役割を自ら演じているのであり、そういう自己を東條は「肩の上の少女の聲にしみじみと自省す はんぎやくの虚心」という言葉で描いている。少女に語って聞かせた世界は、カタカナで表記されている。これは、暗に、それが仮想された世界であり、作者にとっては心底からは信じられないものであることを示している様だ。これに対して作者の自己自身の世界は平仮名で表記されている。そこには少女の物語と作者の現実との分離が表されている。物語の夢から覚めてみれば、現実の作者は「はんぎゃくの虚心」しかもちえない自己に直面せざるを得ない。そういう自己への「反省」こそがこの物語の主題であろう。

 

新しい物語からは、カタカナの表記が消えているが、それは物語る世界(信仰)と物語る作者の現実を隔てていた壁が突破されたことを意味している様だ。以前の物語行為に於いては単なる夢物語に過ぎなかったものが、ここでは作者の現実そのものとなり、物語られる世界こそを現実として肯定する「ラボニ!」という叫びが、語り手の意志、新しく獲得した信仰の世界において再生した作者自身の実存の表現になっている。

 

 我々は、常に自己自身の過去を物語ることによって、その都度、自己が如何なる人間であるかを確認する。そしてそういう自己確認−最近の物語論ではnarrative self-identityと言うことが多くなったが−こそが、本質的に時間的な存在である我々自身のありかたを示すものなのである。 

 

 「自覚とは自己が自己に於いて自己を映すことである」とは西田幾多郎の言葉であるが、その自己は、實は、その都度、自らのそれまでの経験を集約統合し、それまでに遭遇した他者との出逢いを含みつつ、自己同一を獲得する。我々の自己確認は、自己の世界を、その都度一なるものとして再組織化することを意味する。そして、物語という言語行為は、それ自身が創造行為であり、その都度、自己と世界を、読者という他者の前に、作品として与えるものであるといって良いだろう。

 

昭和16年の「山桜」3月号に載った「落葉林にて」という東條耿一の詩(文末脚注参照[iv])は、同じ年の「聲」一月号に載った手記「癩者の父」とあわせて読むべき作品だろう。

手記「癩者の父」を東條は次の言葉で結んでいる。

 

こちらに來て、私もカトリツクに復歸してみると、又老いた父母のことが氣になつてならない。恵まれなかつた生涯だけに、救霊の方法を是非講じてやらなければならぬと思つた。私は又父に對して長文の手紙をかいた。父からは何の返信もなかつた。私は重ねて手紙を書いた。その父も胃癌で今は重湯も飲めない。医師は既に餘命幾何もないと宣してゐる。若し神の存在が考へられず永生と云ふものが我々に約束されてゐないとしたら、私は父を思ふに忍びないであらう。私は主の御前に額づいて祈るばかりである。それだけが私に與へられた唯一の道であり孝心である。

 

かつて父親から剃刀を渡され自害することを勧められたこと、また復生病院へ行く途中、この父親と心中したかもしれないというようなことなど、想像を絶するが如き状況を生きてきた父と子の姿が「癩者の父」では、ありしままに綴られている。

 

東條自身の「親不孝」を云う以前に、子供を殺して自害したかも知れないと云う点では、父もまた息子に対する殺人未遂の罪をまぬかれない、そういう極限的な状況を嘗て共有した父と子なのである。その父のことを、東條は、昭和16年以前では殆ど作品に於いて言及していない。しかし、その父が胃癌に苦しんでいるという報せを聴き、自分自身もまた死期を予感しつつあった東條は、その父に対する情念を、この詩では、誰に憚ることもなく吐露している。

 

胃癌に苦しみ「心むなしくやみたまふ」父に対して、救いの手を差しのべることが出来ない自分を、「親不孝者」として詰ること、そのような自責の念をぶちまけることこそが彼にとっては、父親に対する愛情の表現であったのであろうか。

そのかぎりない悔恨が、落葉のなかに埋もれていく父の幻影として、あるいは落葉林を吹きすさぶ風のなかに聴きとめた呻吟する父の声によって示されている。「癩者の父」の末尾に置かれた短歌二首は、この執拗な幻影・幻聴を鎮める祈りの言葉のように思われる。

 

  三人の癩者の父と生れまして心むなしく病みたまひけむ

  ふたたびは生まれることなしうつし世に仕へる時よつひにあらぬかも

 

この歌を詠んだとき、東條は自分のみではなく、父の魂が遂に平安を得ていないこと、自分が何一つ父のためになることができぬうちに父がなくなることがもっとも気掛かりであった。この肉親の父への切々たる思いを抜きにして、「父なる神」と子の和解というテーマをもつ遺稿「訪問者」第二編は充分には理解できないのではないだろうか−そういう思いが私の心中を去らない。

に東條耿一の遺稿集から「訪問者」という詩を取り上げよう。[v]

 

 

東條耿一は、「癩者の父」という自伝的回想と「落葉林にて」という詩の中で、実の父とのあいだの過酷な関係と心の葛藤を表現していたが、この遺稿「訪問者」の「父」は、「父なる神」である。

東條は、神山復生病院で受洗したが、退院後、カトリック信仰から離れ、文藝の創作のほうに生き甲斐を見出すようになる。北條民雄の葬儀後、カトリック教会に復帰したが、その時の心境をテーマにしたものが、この詩であろう。 この詩の中では、

 

吾今より汝が裡に住まむ

汝もまた吾が裡に住むべし

父よ、忝けなし

われ、何をもておん身に謝せむ

わが偽善なる書も、怯懦の椅子も

凡て炉に投げ入れむ

わが父よ、いざ寛ぎて、暖を取りませ

 

という箇所に注目したい。つまり、冬の寒い日の戸外で佇んでいた「父なる神」に暖をとってもらうために、自分が安逸を求めて坐っていた椅子と、自分がもっとも重んじていた過去の創作を炉にくべるという箇所である。

 

そこには、非キリスト教的な文学と訣別して、信仰の道を一筋に歩もうとする彼の決意があった。妹の津田せつ子によれば、実際に東條は自分の未公開の詩作品を焼いてしまったという。そのために、彼の遺稿には、この訪問者以外の詩が残っていない。

この詩では、東條自身の「父なる神」との和解が、東條を訪れた訪問者のイメージを借りて詠われるが、それは同時に地上に於いて「三人の癩者の父」として辛酸をなめつくした肉身の父のイメージを借りて表現されているようだ。嘗て父に対して門を閉ざした子は、信仰に目覚めぬ一人の人間の姿でもあるが、それと同時に、肉親の父を拒絶した東條自身でもあったろう。凩の吹き荒ぶなか戸外で佇む父、「久しく凩の門辺に佇ちて、汝を呼ぶことしきりなれば、吾が手足いたく冷えたり」と語る父は、なんと「落葉林にて」の父と似ていることだろうか。

父なる神との和解は、「父よ、われをしてこの歓喜の裡に死なしめよ/父よ、われをしてこの希望の裡に生かしめよ」という言葉で示されているが、父なる神との和解の祈りが、同時に、それを通して、肉身の父との和解と救済への祈りになっているように感ぜられる。

アッシジの聖フランシスの「平和の祈り」には、

 

我等は、与えるが故に受け、ゆるすが故にゆるされ、

おのが身を捨てて死するが故に、永遠の生命を得る

 

という言葉がある。これは、カトリック教会、とくにフランシスコ会の教会ではミサの後でよく唱える祈りであるが、「死するが故に永遠の生命を得る」とは、ヨハネ伝の「一粒の麥」の譬えとおなじく、新約聖書の核心にあるメッセージである。

東條耿一の昭和17年7月の「山桜」に掲載された「病床閑日」という詩を最後にとりあげよう。東條は同年9月4日に亡くなっているから、遺稿「訪問者」を別にすれば、これが東條の最後の詩であるといってもよいかも知れない。

 

病床閑日

 

私はけふ 晝のひと時を

庭の芝生に下りてみた

陽はさんさんとそゝぎ 近くの樹立に松蝉が鳴いてゐた

私は緑のやは草を踏みながら 踏みながら

そのやはらかな感觸を愛しんだ

不思議なほど 妖しいほど 私の心にときめくもの

一体この驚きは何だらう

思へ寝台の上にはやも幾旬――

もうふたたび踏むことはあるまいと思つてゐた

この草 この緑 この大地

私の心は生まれたばかりの仔羊のやうに新しい耳を立てる

新しい眼を瞠る そうして私は

私の心に流れ入る一つの聲をはつきり聞いた

それは私を超え 自然を超えた

暖いもの 美しいもの

ああそれは私のいのち いのちの歌

(「山桜」昭和17年7月号)

 

私は、この詩の最後に出てくる、「いのちの歌」という言葉に撃たれた。これこそ、かつて北條民雄が「いのちの友」と呼んだ東條耿一の作品の精神をもっともよく表すものではないだろうか。

 

東條はこの詩が発表されてから二ヶ月後に亡くなったが、結核性の腹膜炎を併発し、非常に体調が悪い時期であった。この詩は、そういう苦しい病床の中で、比較的、病が小康状態であったときに詠まれたものである。

 

この詩で、「新しい眼を瞠る」という箇所に注目したい。作者は、もはや「古い眼」で外なる自然を見ているのではない。そこで「私を超え、自然を超えた」声、鳥たちの囀りを聴いていると、それは、もはや「束の間の消えゆくもの」としてではなく、「永遠のいのち」として、そして同時に「私のいのち」として聴かれている。「この草 この緑 この大地」は、この世のものであるが、そこにおいて、「永遠なるもの」が先取されているような、そういう響きがある。

 

アッシジのフランシスの平和の祈りには、様々なバージョンがあるが、あるバージョンでは「永遠の生命を得る」ではなく「永遠の生命に目覚める」となっている。眠りから覚めて、新しい眼を瞠るとき、どういう情景が見え、どのような聲がきこえるのか。それは決してまだ訪れない未来のこととしてのみ語られているのではない。そういう未来は、必ず訪れるべきものとして、病床の中にいる東條の「新しい眼」において、直接に経験されている−そういう強い印象をこの詩は読むものに与えるのである。


脚注


[1] 「日本のハンセン病問題」は日本人の韓国と台湾に対する戦中戦後の責任問題も含むということは注意されるべきである。

 

[2] ここに云う「カトリック」とは、使徒信条に云う「普遍の教会」であって、ローマン・カトリックとか「聖公会」のような特殊な教団に限定されない。信仰告白は、「私は信じる」と述べるものなのであって、決して「我々は信じる」ではない。常に「一人称単数」で宣言するところに、信仰宣言ないし信仰告白(Credo=I believe)の特徴がある。それは、組織のメンバーとしての「我々」の中に個の主体性を埋没させることではなく、あくまでも「一個人に徹する」ことを通じて、「普遍の教会」を信じることを「公に」宣言するのである。

[3] 昭和10年代の療養所の検閲、また、一般の文壇に於ける検閲がどのようなものであるかは、戦後になってから北條民雄全集が再刊されたときに、川端康成が公開したつぎのような療養所の「検閲係」からの書状に示されている。
「謹啓愈々御清栄の段奉賀上候陳者毎度本院収容患者に対して種々と御懇篤なる御指導を賜り誠に有難く御礼申上候。扱て先日来故北條民雄の遺稿に関して之が検閲方を光岡良二より申出有之侯。依て慎重なる検閲の結果、只今御手許へ御送附申上候二編は本院の統制上之が発表せられるは甚だ面白からざる事と存ぜられ候実は故北條民雄の旧友よりの懇望も有之一応右の二編の遺稿を御送附申上候条、何卒御高覧の上は御迷惑ながら御返却被下度伏御依頼申上侯
全生病院検閲係    昭和十二年十二月三十一日   川端康成殿」

[4] 近現代日本ハンセン病問題資料集成(藤野豊編・解説 2002.6- 不二出版)戦前篇第5―6巻参照

[5] 当時の愛生園は、定員過剰のため、12.5疊の部屋に平均して8名から10名の者が雑居生活をしていた。園内作業の賃金は、定員分の経常費から捻出していたため、定員過剰に伴い園内作業賃も切りつめられた。長島事件とは、患者たちが結束して「待遇改善、作業慰労金の値上げ、患者自治会の結成、職員総辞職」を掲げ、作業をボイコットした事件である。この患者作業ボイコットは、昭和11年8月13日に始まり、岡山県の特高課長の仲介で、8月28日に中止された。

[6] 津田せつ子(渡辺立子)曼珠沙華より「北條さんの思出」(昭和56年私家版)

[7] 「人間北條民雄」『医事公論』特輯 昭和14年3月18日

 

[8] 真筆版北條民雄日記 昭和12年 「柊の垣にかこまれて」(山下道輔・荒井裕樹編集 平成16年6月)による。

[9] 伏せ字(天皇)

[10] 伏せ字(偶像)

[11] 伏せ字(偶像)

[12] 伏せ字(マルキシズム)


 


文末脚注

 

本文で言及した萩原朔太郎の詩とともに、東條耿一のいくつかの詩を文末脚注としてここに補足する。なお東條耿一の作品は
東條耿一著作集(田中裕・村井澄枝編集)東條耿一詩集第二版(PDF)によってWEBで見ることが出来る。

このほか、カトリック機関誌「聲」に掲載された東條耿一の晩年の手記
種まく人達:東條耿一の手記(1941)(PDF)

全生園で開催した朗読会の記録
東條耿一詩集朗読会の記録(20049)PDF)

を閲覧できる。

 

[i] 樹々ら悩みぬ
北條民雄に贈る−

東條耿一        
月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
   樹樹ら 悲しげに 身を顫はせて呟きぬ
   蒼夜なり
   微塵の曇りなし
   圓やかに 虔しく 鋭く冴え
   唯ひとり 高く在せり
月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
   樹樹ら 手をとり 額をあつめ
   あらはになりて 身を顫ふ
   されど地面にどっしりと根は張り
      地面はどっしりと足を捉へ
  (悲しきか)
  (悲し)
  (苦しきか)
  (苦し)
   樹樹らの悩み 地に満ちぬ
   彼等はてもなく 呼び應ふ
ああ月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
   樹樹ら 翔け昇らんとて
   翔け昇らんとて 激しく身悶ゆれど
   地面にどつしりと根は張り
   地面はどつしりと足を捉へ
(昭和十二年 「四季」 十一月号)

 

 

[ii] 閑雅な食慾
萩原朔太郎

松林の中を歩いて

あかるい氣分の珈琲店(かふぇえ)をみた。

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店である。

をとめは戀戀の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほふくを取って

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲が浮んで

たいそう閑雅な食慾である

===================

閑雅な食欲
東條耿一

食卓の上に朝日が流れてゐる

どこかで木魚の音がする

読経の聲も微かに聞える

わたくしは食卓の前に

平らな胡座をくんで

暫くはホータイの白い

八ツ手の葉のやうな自分の手をながめる

いつの間にこんなに曲つてしまつたらう

何か不思議な物でも見る心地である

わたくしはその指に

器用に肉又(フォーク)をつかませる

扨て、と云つた恰好で

食卓の上に眼をそそぐ

今朝の汁の実は茗荷かな

それとも千六本かな

わたくしはまづ野菜のスープをすする

それから色の良いおしん香をつまむ

熱い湯気のほくほく立ちのぼる

麦のご飯を頬ばりこむ

粒数にして今のひと口は

どのくらゐあつたらうかと考える

わたくしは療養を全たうした

友のことを考へる

療養を全たうしようとしてゐる

  自分の行末について考へる

生きることは何がなし

  嬉しいことだと考へる

死ぬことは生きることだと考へる

食事が済んだら故郷の母へ

  手紙を書かうと考へる

考へながらもわたくしの肉又は

まんべんなく食物の上を歩きまわる

「有り難う」とわたくしは心の中で呟く

誰にともなくおろがみたい気持ちで・・・・


九月某日
(昭和十五年「山桜」二月号)

 

[iii] 晩秋  

東條耿一 

       

 芒のさ揺れ 赤松の幹の光 静かな疎林のほとりからこころに沁みいる アンジェラスの鐘―

―小父チャン 天ニモオ家ガアルンデシヨ 

アレハ迷子ニナラナイヤウニ 天ノオ家デ鳴ラスノネ 天ノオ家ハホントノオ家ネ アソコニハ オ父サンヤ オ母サンモ ミンナヰルンデシヨ アタイハヤク行キタイナ ミンナハ天ノオ家 知ラナイノ?

―ミンナハ遊ブコトバカリ知ツテヰテ ホントノオ家ヘ帰ルノヲ 忘レテシマツタ オバカサン イケナイネ・・・・

―ヂヤア 小父チヤンハ?

―アア小父チヤンモ忘レテヰタヨ コレカラハハルチヤント 仲良ク帰ラウネ

―ミンナトンボニナツテ帰ルノネ ステキ ステキ

止んでまた鳴りつぐ 鐘の音の 枯野は寂し

ああ肩の上の少女の聲に

しみじみと自省す はんぎやくの虚心・・・・・。

(昭和十二年「山桜」十月号)

 

 この物語は、4年後に、手記「鶯の歌」(「聲」昭和16年6月号)に於いて、もういちど語り直され、次の様な作品に変貌している。

 

 

 

鶯の歌

東條耿一

 

 夕食後、縁先で萬年青の葉を洗つてゐると、小父さん、と三郎君がやつてきた。

 三郎君は今年七つの癩者の孤児である。入院してまだ半年にみたないが父親は十年ほど前に入院し、盲で咽喉を切開し、つい先頃重病室で死んだ。三郎が入院してまもない或日収容病室の付添夫をしてゐる友がつれてきた時、梨かなにかを與へたのが縁で、私と三郎はすつかり仲良しになり、それから少年は毎日のやうに來て、食事も一緒にするやうになつた。三郎は額にちょつぴり赤斑紋があるきりだが、繃帯だらけの私を少しも嫌はず平氣で抱きついたり、肩車に乗つたりした。

 私は水筆を捨てて早速三郎君とつれだつて散歩にでかけた。垣ぞひの道まで來ると、私は少年を肩車にのせた。

「望郷臺に登らうよ。だけど、あたいを肩車にのせて、小父さん登れるかい。小父さんはのつぽだけど、ひよろひよろしてゐるからな」

 少年は頭の上から私の顔を覗き込むやうにして云ふ。私は桃畑を突切り、椎の並木を望郷臺へ向つた。

「さあ、小父さん、しつかりしつかり」

爪先き上りの細道を喘ぎ喘ぎ登る私に、少年は足をばたばたさせながら云ふ。どうやら頂上に出た私は思はずほつと大きく息をした。冷い風が汗ばんだ肌に快い。一望に開けた眼界を見、少年はバンザーイと叫んだ。私の眼には近くの寮舎の屋根だけが朧に見えた。遠く夕陽がもえ、あたりには早や黄昏の色が立ちこめてゐた。折柄ベトレヘムの園で打鳴らすアンジェラスの鐘が冴々と大空に響き渡つた。

「サブちやん、一寸の間静かにしてゐるんだよ」

と私は十字を印した。少年は祈が濟むまでおとなしくしてゐた。

「小父さん、今の鐘は何處で鳴らすの」「あれかい、天のお家で鳴らすのさ」

「天にもお家があるの」「あるとも、とても良い所で、綺麗なお國さ、良い人ばかりゆけるところさ。サブちやんも行きたいかい」

「うん何時ゆくの」

「死んでからさ」

「ぢや、つまんないなあ」

「つまんなくないさ、サブちやんは死んでから本當のサブちやんになれるんだよ。それに天のお家には、サブちやんのお父さんやお母さんもゐるんだよ」

「みんな天のお家知つてるの、正ちやんや牧ちやんは?」

「忘れてしまつたお馬鹿さん」

「あたい家に帰つたら天のお家のこと正ちやんや牧ちやんに知らせてあげよう」

 さういつて少年は暫く黙つてゐたが、小父さんと又言つた。

「天のお家はあの赤いところ?」

少年は眞赤に燃えた夕雲を指して見せた。そして私が肯くと、肩の上に立上がるやうにしてバンザーイと叫んだ。私も大きく胸を張つて「ラボニ」と叫んだ。

 

[iv]

落葉林にて

                                                                                                                        東條耿一


私はけふたそがれの落葉林を歩いた。粛條と雨が降ってゐた。

何か落し物でも探すやうに、私の心は虚ろであった。 何がかうも空しいのであらうか。
私は野良犬のやうに濡れて歩いた。幹々は雫に濡れて佇ち、落葉林の奥は深く暗かった。
とある窪地に、私は異様な物を見つけた。それは、頭と足とバラバラにされた、男の死體のやうであつた。私は思はず聲を立てるところであつた。
 よく見ると、身體の半ばは落葉に埋もり、頭と足だけが僅かに覗いてゐる。病みこけた
皺くちやの顔と、粗れはてた二つの足と……。その時、瞑じられてゐた眼が開かれ、

白い眼がチラツと私を見た。
「アッ、父!!」と私は思はず叫んだ
「親不幸者、到頭來たか……。」
と父は呻くやうに眩いた。許して下さい、許して下さい、と私は叫びながら、父の首に抱きついた。父の首は蝋のやうに冷たかった。
それにしても、どうして父がこんな所に居るのであらうか、胃癌はどうなのであらうか、
その後の消息を私は知らないのだ。
「胃癌はどうですか、どうして斯んな所に居るのですか、さあ、私の所へ行きませう。」
私は確かに癩院の中を歩いてゐたのに、はて、一體此處は何處なのか、私は不思議でな
らなかった。
「お前達の不幸が、わしをこんなに苦しめるのだ。」と父はまた咳くやうに云った。私は
はやぼうぼうと泣き乍ら父に取縋つて、その身體を起さうとした。しかし、父の身體は石
のやうに重かった。
「落葉が重いのだ、落葉が重いのだ。」
と父がまた力なく叫んだ。
「少しの内、待ってゐて下さい。今直ぐに取除けてあけますから……。」
 私はさう答へると、両手で落葉を掻きのけた。雨に濕つて、古い落葉は重かつた。

苔の馨りが私の鼻を掠めた。しかし、幾ら掻いても、後から後からと落葉が降り注いで、父の身體にはなかなかとどかない。私は次唐に疲れて來た。腕が痛くなり、息が切れた。私は悲しくなって、母を呼んだ、兄を呼んだ……
どの位経つたのであらうか。
私は激しい疲勞のために、その揚に尻もちをついた。ぜいぜいと息か切れた。降り積る
落葉は見る見る父の顔も足も埋め盡して、からから佗しい音を立てた。
「噫、父よ、父よ……。」
日はとつぷりと暮れて、雨はさびさびと降つてゐた。
「親不孝者、親不孝者……
何處からか苦しげに呻く父の聲が、私の耳元に、風のやうに流れてゐた……

(昭和16年 「山桜」三月号)

 

 

[v]  遺稿「訪問者」 第二編

               東條耿一

 

吾子よ、吾なり、扉を開けよ

汝を地に産みし者来たれるなり

吾、はるばると尋ね来るに

汝、如何なれば斯く門を閉じたる

吾子よとく開けよ

外は暗く、凩はいよよ募れり

 

噫父なりしか

父なりしか、宥せかし

おん身と知らば速やかに開きしものを

噫何とてわが心かくは盲ひ、かくは聾せり

わが父よ、しまし待たれよ

わが裡はあまりに乏しく

わが住居あまりに暗し

いとせめて、おん身を迎ふ灯とな点さむ

 

これ吾子よ、何とて騒ぐ

吾が来たれるは

汝をして悲しませむとにはあらで

喜ばさむ為なり

吾が来れば

乏しくは富み、そが糧は充たされるべし

吾久しく凩の門辺に佇ちて

汝を呼ぶことしきりなれば

吾が手足いたく冷えたり

 

噫わが父よ、畏れ多し

われおん身が、わが門を叩き

われを求むを知り得たり

されど、われ怯懦にして、おん身を疎み

斯くは固く門を閉したり

噫おん身を悲しませし事如何ばかりぞや

われ如何にしてお宥しを乞はむ

さはれ、われは伏して、裡に愧づなり

わが父よ、いざ来たりませ

 

吾子よ、畏るゝ勿れ

非を知りて悔ゆるに何とて愧づる

夫れ、人の子の父、いかでその子を憎まむ

吾今より汝が裡に住まむ

汝もまた吾が裡に住むべし

父よ、忝けなし

われ、何をもておん身に謝せむ

わが偽善なる書も、怯懦の椅子も

凡て炉に投げ入れむ

わが父よ、いざ寛ぎて、暖を取りませ

われ囚人(めしうど)にして、怯懦の子、蝮の裔

おん身を凩の寒きに追ひて

噫如何ばかり苦しませしや

 

最愛の子よ、吾が膝に来よ

而して、汝が幼き時の眠りを睡れ

そは吾が睡り甘美(あま)ければなり

われおん身を離し去らしめじ

わが貧しきを見そなはして

わが裡に住み給へば

われもまたおん身の裡に生きむ

永久(とこしへ)に、われ、おん身の裡に生きむ

父よ、われをしてこの歓喜の裡に死なしめよ

父よ、われをしてこの希望の裡に生かしめよ