昭和16年の「中外日報(浄土真宗系の新聞)」に掲載された小笠原登と早田浩の論争について言及したものはこれまでの文献にもあるが(たとえば大谷藤郎、藤野豊)、その詳細は十分に知られているとは言い難い。これは、戦前の日本に於ける救癩政策ー強制的な終生隔離政策−を推し進めていった光田健輔に代表される療養所学派と小笠原との間の論争を知る上で貴重な資料である。 この論争の発端は、京大の皮膚科診療室を取材した新聞記事である。このあとで、国立療養所の医官、早田浩が、同じ紙上で反論し、小笠原登が、それに答えるという形で論争が展開された。 なお、当時の浄土真宗では、「大谷派光明会」が結成され、宗派を挙げて、「救らい」キャンペーンに参加していたことに留意すべきであろう。 「癩療養所の患者達は祖国を浄化する為に、療養所内に安住し、此処に骨を埋めることをいさぎよしとしてゐるのである」−などという文が当時のこの派の出版物に頻出している。小笠原登を取材したこの記事は、そういう光明会の活動とは別の流れが浄土真宗にあったことを示している。 まず、中外日報の昭和16年2月22日に「癩は不治ではない−伝染説は全信できぬ 小笠原博士談」という記事がでたことが論争の発端となった。
癩は現在の学説では伝染病となっており、それは不治を約束されてゐる難病だという社会的常識すら有る。然るにこの癩伝染説に疑問符を持ち「癩は不治の難病にあらず」と断定したら、学会も一般社会もさだめて驚くことであろう。ところがこの逆説的な研究に身を委ねて去大正14年以来今日まで、実に16年間、孜々として倦むところを知らない人に京大医学部講師小笠原登博士がある。
實は、この記事の見出しには医学的にはやや不正確なところがあり、あとで示すように、小笠原登の考え方によると、癩は「不治の病」というのは迷信であると喝破してはいたが、らい伝染説を否定したのではなく、らいが危険な伝染病であることを否定したのであった。つまり、小笠原と療養所学派との論争点は、決して、「伝染説か体質説か」という二者択一にあったのではなく、「らいは強制隔離をおこなうほど危険な伝染病か否か」にあったと言うべきであろう。しかし、この点は後で又論じることとしよう。 中外日報の記者は、次に小笠原登を次のように読者に紹介している。
小笠原博士は愛知県海部郡甚目寺村大谷派円周寺の出で、令兄は現に大谷大学に教鞭をとってゐられる。兄弟とも五十を過ぎて独身で両人して荘厳院西之町に借家し簡素な自炊生活を続けて居られるが、博士は連日学内皮膚科特別研究室に屯して三十人たらずの入院患者と多数の外来患者を相手にこの貴重な研究を続けてゐる。癩の治療には祖父以来浅からぬ因縁があって、祖父は治療を求めに来た患者を本堂の縁に灰を積み、その上に新聞紙を布いて据らせこんねんに治療に当たったもので、しかも食事など家族も共にやるといふ大胆なやりかたで時に召使いのものの不機嫌を購はねばならぬことも多かったといふ。ともかくさういふ具合で博士の家は伝統的に癩患者をいたはり、その治療の為に考へ、至力をここに尽くすべく宿命づけられてゐるものとも見られるわけで、社員は博士の高き風格に直接してその篤実な学者的態度に撃たれた一人である。以下は博士の談話の要旨である。
ここで注意すべきは、小笠原の家が代々漢方医として癩の治療に当たっていたという事実である。彼は西洋医学だけではなく、東洋の伝統的な漢方医療にも通じていた。そして、祖父以来の豊富な臨床的な経験から、らいは決して危険な伝染病ではないこと、らいは決して不治の病ではないことを確信していたのである。光田健輔のように、らいの原因をらい菌のみに求め、その病原菌を強制隔離によって日本から撲滅しようと言う考え方を小笠原はとらなかった。彼は隔離ではなく患者との「共生」をめざす医療思想を説いたが、それは、伝統的な東洋の医療思想に根ざすものでもあった。我々は、あとで、小笠原の「漢方医学の再評価」という著作を検討するが、近代西洋医学一辺倒であった光田学派の非人間的な医療政策の問題点を、なぜ小笠原が戦前の時点において洞察し得たか、それを医の倫理の根源に遡って検証することとなるであろう。 さて、中外日報の記者は、小笠原の談話を次のように伝えている。
癩は神代の昔からあったといひ伝えられて居り、大宝令の令義解にはすでにその伝染説が出てゐます。しかし、癩が果して強烈な伝染性のものなれば今日までに国中が癩で充満したといふやうなこともありませうが(何等予防の施設のなかった長き歴史に於て)嘗てさういふことを聴きません。
小笠原は、らいという病気の原因を、病原菌だけではなく、それにたいして感染し発病する人間の体質ないし感受性、および患者の生活する衛生的環境の三つの因子の相関関係の中で捉えようとする。それを判りやすく示すものが、「鐘と撞木」の譬えである。
今ここに一つの撞木があるとする。この撞木を用ゐるときには大きな鐘も小さな鐘も皆一様に鳴るといふならば頗る妙な撞木だといふので、この撞木を問題とせねばならぬ。しかるに反対に、この撞木を用ゐるときは何れの鐘も鳴らぬのであるが、唯一、二の特別の鐘のみが鳴るとしたならば、撞木を研究して見るよりも鐘の方を研究せねばならぬのである。今、癩の場合に於いては、癩は何れの撞木の場合に当て嵌まるかを考へるならば、癩の場合における病菌の関係は正しく後者の撞木の場合に合致するのである。
この鐘と撞木の譬えが適切であるという根拠は、次のような病理学的なデータがあるということを小笠原は指摘する。
何故ならば、人体実験及びその他を考へ併せるならば癩菌はさほどに病原性を有するものでは無いといはねばならぬからである。即ち此場合に於ては癩菌の研究よりも寧ろ病原性の乏しい癩菌に遭遇して発病するがごとき体質のほうが問題とせらるべきであるとするのが私の主張であります。私が文献的に知ってゐる人体接種実験は約220例ありますが、この実験によって癩が現れたのは僅かに五例で、約2.3%に過ぎませぬ。またフィリッピンに於てこんな統計の出た実験があります。それは患者の子を親達から隔離して健康者の手によって養育した結果発病を見たのが23%、そのまま親の手元においたのが11.5%といふのです。これなども考へささるべき統計ではありませんか。
我々は「伝染病」という言葉の意味が決して一つではないという事を小笠原は指摘する。
およそ伝染病にも二種の区別があり、広い意味のと狭い意味のとおのづから別れてゐます。広い意味からいへば、いはゆる飛火グサなども立派な伝染病でせう。癩はけだしこの広い意味における伝染病と申す外はありません。従って療養所も厚生当局も病菌の研究のみに専注しないで体質の研究に邁進すべきだと思ひます。
具体的には、国民の栄養の改善、衛生環境の改善のほうが、隔離よりも効果的であるという含意が小笠原説にはあった。それは統計的な考察から明らかであったが、其れにもかかわらず、人々が隔離政策を当然視したのは、癩は不治の病であるという考えに呪縛されていたからである。この不治と言うことについても、小笠原は再考を求めている。
最後に私は癩の全治を確信するものでありますが、それは今日までの私の実験が立派に証拠だててゐてくれます。しかし、それを諒解して貰ふのには一つの前提が必要で、即ち病気が治るといふことは病菌が無くなって人体の組織を破壊する力がなくなったといふことを条件とせねばなりません。私の実験上、この条件に達したのは無数にあります。しかし、病歴の結果、指が屈んだとか、腕が曲がったとかいふ現象の残るのは、それが後遺症である場合、避けがたいことで、その現象のみを見て素人考へに彼の人はまだ癒ってゐないとするのは妄談であります。内臓の病気でも何処かに痕跡を残しているもので、その痕跡を突き止めてお前の病気はまだ治って居らぬといへば酷でせう。チプスの如き場合、三十年も潜んでいた病菌がまた再発するといふ事すらありますから、これらはよほど慎重に考へねばならぬところだと信じます。
この小笠原の談話を紹介したあとで、中外日報記者は次の如くコメントしている。
博士の主張は最近学会の多く認むる所となり各地の療養所でもこれを尊重してゐるといふことであるが、取締関係上厚生当局では、まだこれに疑問符を残してゐるといふことである。社員は、博士の主張が徹った場合、その与へる社会的影響がどうであるかをも考へぬではないが、それよりも真実が明るみに出るといふことは医療文化のために喜ばしいことだと信じて敢へて博士の説を紹介した。なほ博士には「癩と佝僂病体質」「癩とヴィタミン」「二,三の皮膚病」「癩の話」などの諸研究がある。なほ、小笠原博士は最近全治した朝鮮青年を自坊に引とっていそぐ患者をそのベッドに入れようとして居られるなど涙ぐましい献身的なはたらきをしてゐられる。
前回、小笠原登に関する昭和16年の中外日報の記事、「癩は不治ではない 伝染説は全信できぬ 研究16年 小笠原博士談」を転載したが、これに対する療養所学派、長島愛生園医官早田皓の同紙によせた反論、「癩の遺伝説と治癒の限界に就て―京大小笠原博士に呈すー 」はどんなものであったか、それを検討しよう。早田は、この反論を次のように書き起こす。
「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか、鐘と撞木の間が鳴る」穿った民謡であるが、之を学説に応用されると面倒なことになる。本年の春京大小笠原博士は談話の形式で本誌に癩は多分に遺伝であり、また癩は不治ならずとして、患者の随喜渇仰に値すべき説を発表されたが、本紙が医学専門雑誌でない関係から、一筆呈上に及ばうとは思つたもののご迷惑とさしひかへて見たが、良く考へて見れば本紙の読者層は主として宗教家であり、地方の指導者階級である以上之を放任して今更に癩が遺伝であったかと信じられては本病予防もいよいよ峠の見え出した今日この頃、徳川の初期、隔離事業がやつと緒に就いた處をキリシタン禁制と一所におぢゃんになり、三百年の放任主義が遂に明治初頭の癩暗黒時代を現出したことを思えば、敢て一言博士に苦言を呈し、併せて読者諸賢の癩予防事業に対する全幅のご協力をお願いしたく筆を執った次第である。筆者は博士には昭和八年以来御厚誼を願っており感情上の問題ではなく純学問的討論であることを初頭に於て御断り申し上げて論旨を勧めて行く。」
まず早田は、小笠原の主張を要約した新聞記事が「伝染説は全信できぬ」という見出しを掲げたことを取り上げ、小笠原が、らいは遺伝病だというすでに論破された学説に固執しているといって非難した。これは、絶対隔離政策を推進した療養所学派が、小笠原説を非難するときの常套文句であったが、彼らは、小笠原がすでに1931年に「癩は遺伝病である」ということを「三つの迷信」のうちの一つとして斥けたことを無視している。小笠原の論点は、らい菌に触れただけでは滅多に感染が起こらないこと、夫婦の間で感染発病するケースが稀であることであった。従って、配偶者が癩であったからといって悲観する必要は全くない、というのが本来の論点であった。 「癩は強烈な伝染病ではない」という小笠原説の核心については、早田はどういっていたか。
「夫婦間に癩の発病が少ない、すなわち夫婦間に於ける伝染は何百例に就いて一例ほどしかないといはれる、これは少なくとも日本においては事実である」
癩は成人同士の間ではめったに伝染しないこと、この根本に於いて早田は小笠原の主張を認めている。それだけでなく
「(小笠原)博士の御祖父が患者を世話し、博士も幼少時代に於いて殆ど同居生活を続けられたが、未だに癩を発病しないと言われ、同じ浴槽で入浴されたとのことであるが、太田教授の最近の研究では、60度で既に癩菌は死ぬ由であるし、入浴ということ自身が本病予防上重大な役目を演ずるので、草津に於いては、健康者で嘗て癩の発病した例がないとの伝説さへある。石鹸の使用量と癩の発生は反比例するともいはれており、皮膚を清潔にすれば、少なくも余り危険なものではない。」
と言っている。 次に断種については
「重症者においては梅毒の場合と同じく、胎内感染がみとめられる」ことと「先天癩の子供の暗黒さを考えてやらねばならぬ」ことから、
「断種法を実行することは楽しみの少ない癩患者に対して、僅かながらも人生を味わせる親心であり、素質遺伝を肯定するからでもなんでもなく、病的な子供を必要としない、大和民族の大英断である」
と述べている。そして、「癩は不治ではない」という小笠原の論点に対しては、癩が完治するなどということはあり得ないとし、早田は次のように反論した。
「自覚症状がなければ治癒したと仮定が真理なら、我が国一万五千の癩者はたちどころに、二千人に減じ得る。誤れる仮定のもとに治癒を決定し恐るべき伝染病患者を世に送る事は、医人としての重大な罪悪である。情に負けて人工妊娠中絶、あるいは伝染病患者の届出でを励行しない徒と何等異ならない。厳たる科学的観察と冷静なる判断のもとにのみ決すべき治癒の問題を軽々に取り扱うことは、果たして真の医人であろうか。」
中外日報に於ける早田皓の小笠原批判は、結論を見れば判るように、大日本帝国の国策として、らい病を撲滅することが第一義的と定められたのだから、小笠原もそれに従えというにつきる。医学上の知見としては、小笠原の「体質説」は結局は遺伝説にほかならぬと、位置づけた上で、早田は一応それに反対するデータを揃えはしたが、結局のところ「癩は強烈な伝染病ではない」という小笠原の意見は認めたのである。 それでは、それほど弱い伝染性しか持たないものをなぜ強制的に絶対隔離するのかというと、この病気が不治であるというのが、その論点であった。これに対して、小笠原は中外日報紙で、この早田の批判に対して、あくまでもひとりの臨床医としての医療経験に基づき、自分の云う体質説が遺伝説とはことなることを次のように説明した。
「ここに誤解してはならぬことがある。癩に罹りやすき素質が遺伝しうるものとするならば、子々孫々に伝わって永遠に危害を貽すものであると考へてはならぬ事である。凡そ、天地間に常住なるものは一つもない。恒に転変を続けているものである。また自存するものも一つもない。万有の相関関係によって流転の真っ直中に於いて仮に一時存立するにとどまる。癩性素質も亦此の鉄則に漏れぬのである。環境の変化はよくこの素質に転化を与える。癩に罹りやすき素質も亦生活法の改善を行ふだけにても消失する。 地方には癩系と称せられてゐる家があって、有名であるにもかかはらず、今日は一介の患者すらないことが通例となってゐる。かた、某県に於いて、舊幕時代に患者を放逐した小島があって、現在の戸数63戸ほどであるが、何れも皆患者の子孫のみであると聴いてゐる。しかるに該島には今ひとりの患者すらないのみならず、所属隊の壮丁成績が頗る佳良であるといふのである。この事実は、また、癩に罹りやすき素質も亦環境によって消失するものであることを察知せしめる事実である。」
つまり、遺伝病であるならば、環境の如何によらず、患者が発生するはずであるが、癩に罹りやすい感受性は、環境を改善することによって消失するというのが、小笠原の云う体質説と所謂遺伝説との決定的な違いなのであった。 また、隔離せずとも癩の患者の数は、近代化とともに減少傾向にあることを統計によって示し、小笠原登は、
「明治24年以来、徴兵検査の際に発見せられた癩患者数は次第に減少したと共に、また北里博士の明治39年の統計に於いて、二万三千八百十五名であったのに対して、昭和十五年三月の統計では一万六千五十四名となってゐるのである。すなわち、隔離法が行われざる以前より、患者数は減少に向かっていたのである。」
という統計的事実を指摘している。 また、当時の外国の学者の説をも引用して
「ジャンセルム氏は「ハンセン氏菌の感染力の弱きことは単純な観察がこれを論証するに十分である」と云ひ、ダウル、ロング両氏もまた、伝染力の微弱なことを認め、ヴェダー氏は「癩は伝染によって蔓延することが一般に認容せられてゐるにもかかわらず、吾人の期待を満足せしむるに足る論拠がない」と云っていつのと相通じるところがある。急激な伝染を思はしめるような特殊な例を挙揚し、之を一般化して考へてはならぬ。」 「クリングミュラー氏は、その著「癩」において、「癩問題は吾等の世紀に入って新時代にすすみ行ってゐる。なぜならば、今や、新時代の治療法によって癩不治のドグマは転覆しているといふことを確言し得るからである」
と療養所学派の隔離政策を批判している。この最後の言葉、すなわち「癩不治のドグマは」転覆している」というのは、この論文が掲載されたのが昭和十六年六月七日であることを考えると、まさに歴史の趨勢を言い当てたものであった。小笠原の結論を引用しよう。
「要するに、癩は細菌性の疾患ではあるが、その伝染力は頗る微弱であるたがために、俗眼をもってしては伝染性の有無を辧じがたきほどに緩慢なものであって、羅病の素質あるものが特に病原の害毒を受ける物であると考へられる。しかし、万物流転の鉄則に従って、癩羅病の素質は、なきものにも生じ、有るものには又消えうるものであって、永遠に伝わるといふのではない。クリングミュラー氏は「きわめて単純な衛生法にて癩の伝染を防ぐに十分である」といってゐる。患者諸君は絶望する所なく、治療に専念せられんことを希望してここに筆をおく。」
小笠原の「我が診察室よりみたる癩」が掲載された後で、早田皓は、昭和16年7月4日の中外日報で再び、「癩は伝染病なり」という論文を発表して、療養所学派の強制隔離政策のキャンペーンを次のように展開した。 これは早田自身がはじめにことわっているように、小笠原の諸説は無関係に
(1)癩の発病は遺伝的関係を有しない
(2)癩の治癒が困難であること
(3)現在に於ける癩予防事業の方向 の三点を論じた。
それらは、彼の属する療養所学派の医療政策そのものであるが、(3)の結論部に於いて小笠原に言及しているので、その箇所を引用しよう。
「癩の治療は前述のごとく困難である、羅患を防止させる以外に蔓延を停止させる策はない。環境衛生の完備によって或いは軽症者との同居なら何等支障を来さないようになるかも知れない。しかし、その対象たるや全国七千万の同胞に及ぼさなければならない。僅かに残余五千名の隔離により本病が根絶せしめられ得るならばこれほど容易なことはないであろう。即ち一万六千の絶対隔離の断行こそ本病絶滅の捷径である。」
ここで、「僅かに残余五千名の隔離により本病が根絶せしめられ得るならばこれほど容易なことはないであろう。」という箇所に注意したい。隔離押された一人一人の人間の命の重みという視点はそこにはない。「即ち一万六千の絶対隔離の断行こそ本病絶滅の捷径である」というが、はたして絶対隔離の断行が実際に患者の新規発生を減少させるのに効果があったのかどうか、それは国民の衛生環境、栄養水準の向上以上に有効なファクターであったのかどうか、その点に関する学問的、統計的資料を早田は提出していない。
光田派の医師の一人でもあった内田守が戦後に発表した論文によると、癩患者の新規発生の現象と言うことと上水道の普及ということには強い因果関係があるが、そういう統計的事実を調べようと言う姿勢も見あたらないのである。 早田の議論は、次に大東亜戦争開始前の状況を反映して、次のような議論へと移っていく。
「東亜共栄圏には癩が多い、志那に百万、印度に十万、果して伝へられる如きものかは不明であらうが、何れはこれらの癩者にも福音を与える時が来よう。まず隔離、新患者の根絶、しかしこれによっても療養所内には多数の癩者は其の病と闘って居る。新薬の発見、新治療法の創案もまた望みなしとはしない。難を捨てて易につく、或いは大丈夫の志ではないかも知れないが、いたずらに聲を大にし犠牲者の蔟出を来すことも大丈夫たるものの為す所ではあるまい。すなわち曰く「まず所謂撞木を処理せよ」と。」
早田自身は沖縄の療養所に派遣されたが、それのみならず、韓国や台湾の療養所もこのような光田イズムにしたがって運営され、強制隔離政策が実施された。 早田は、驚くべき事に、明石海人の短歌まで持ち出して、それを強制隔離政策の正当化に利用している。
「「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか」こんな議論を続けるより、一時も早く、撞木を処理することにある。撞木がなければ鐘も鳴らぬ、三千年来、苦しんだ業病癩の根絶は、既に今一歩の先に迫って居る。「日の本の癩者に生れて我悔ゆるなし」と歌った一癩者の聲は、全国十余箇所の療養所内で生活する九千の病者の聲である。九重の雲深き處、仁風薫じ慈雨に浴する感激の生活は其の隔離政策においても何らの暗黒面なき世界に冠絶した救癩事業であることを知らねばならぬ。区々たる感情による誤れる診断、誤れる予後判定に由来する幾多の悲惨、「畳師の悔むともなく云ひつるは惜しみなく捨てし薬料のこと」「人参飲んで首くくり」の愚を演ぜしめざるにある。今や、上下一万五千の病者に安居の地を与え、楽業の土を分つことこそ我等大和民族の最初に実行すべき、民族浄化の聖業である。志那百万の癩を救い、印度十万の癩を助ける日こそ、八紘一宇の大理想顕現の明日であろう。」
はたして、このような強制隔離政策が、早田の自負していたように「何らの暗黒面なき世界に冠絶した救癩事業」であったかどうか、歴史は全く異なる事実を我々に示している。後で示すように、愛生園においても、沖縄の療養所においても、強制収容された患者達の戦争中の異常なる死亡率が、その一端を物語るであろう。
再論の結論部で、早田は、療養所への入所が、いかに癩者にとっても福音であるかを強調しつつ、小笠原について次のような評価を下している。
「(癩は不治であるが)然し治らないからあきらめて療養所に入院しろと云ったところで肯んずるものは殆どない。結局、軽快するから治療せよとすすめるが、一度療養所の門をくぐった時、病者の過半は再び社会生活への欲望を断念するほどに住みやすい處である。最近においては、岡山医大では、癩と診断したものは殆ど愛生園への紹介の労をとる。経済的な圧迫を加えられずに送りうる園内生活に感謝の念を生じないものは一人もない。癩全治の宣伝は世を誤らせること甚だしい、ことにその経済的負担は、その精神生活を悪化させること無限である。浮浪患者が脅迫をやり、窃盗を敢えてするのもその遠因は此処にある。 徒然の友として栄えある使命を達せんとするものは、病者にその正しき道を辿らしめねばならぬ。かう私が書いてきたとき、私の毒舌の対象は小笠原博士であると云ふのではない。私は博士の心境は一番よく知って居る心算である。博士は御祖父の遺志を継がれて真の病者の友として立たれたのである。病者の翹望はなんと言ってもその治癒にある。金オルガノゾルにより大風子油剤以上の効果に驚喜せられた博士は次第に此の薬の虜になられたものである。しかし治療を加えていく裡に次第に不満足の点が生じて来た。神経癩においての後遺症なるものの範囲を拡大されて、治癒の限界の程度を下げられた。しかし、慢性伝染病である関係から特に著名に実害が現れてこない。遂に癩菌そのものの存在すら否定される様になったわけである。伝染病でなければ、隔離は無用である。博士は遂にこんな考へかたから現在皮膚科特別診察室では、特に消毒を厳重にされていない。幼時における御祖父の感化であるかも知れない。かうして治癒の条件を非常に寛大にして浸潤の消褪だけでも治癒と決定されるに至ったものである。即ち、博士の許に於ける治癒率は百%にちかいものになった訳である。夜11時まで外来を許される博士の心やりも良く病者の心理を穿ったものである。同情心は遂に遺伝説にもおよび、伝染病者解放運動に迄進展して行った。前述した不徳義な面々とは雲泥の相違があるり、殊に清貧に安んじられた貴い姿は現世に菩薩を拝するの感がある。 だが、今や、世相は一変した。個人個人の翹望を容れての医学より、民族全体の浄化を計る時機に到来した。一患者を解放することにより、僅かに少数の犠牲者を出すだけであるからといって、これを許すべき時ではない。将来の犠牲者をまず根絶し、而して後に現在の人たちを救うべき時である。真実に現在の人たちに福音をもたらすためには金オルガノゾルに百倍すべき偉効を有する薬剤を必要とするからである。折角の癩者に対する献身が、病者を溺愛するの余りにあらぬ方向に走りつつあるのを悲しむものであり、私は、今、博士の冷静なる御熟考、御再考を祈りつつ、この稿を終わるものである。」
執筆者の早田皓は、長島愛生園医官で、光田健輔のもとで当時、「救らい」活動をしていた。この小笠原との論争の後で、「大東亜共栄圏」の救癩活動の一環として、内地の軽症患者を海を越えて外地に派遣しようと提案した人物でもあった。彼は、日本が侵略した東南アジア地域の癩患者を20万人と推定した上で、療養所を20カ所設置し、それに日本と朝鮮の軽症患者3000人に「個人主義を排撃した精神的な猛訓練」を施し、「全国12カ所に世界に比類なき病者の楽園を築き上げた日の本の癩者達は、御恵を遠く救はれざる民草に及ぼすべき大使命を負はされて居る。救癩挺身隊の出現之こそ日の本の癩者に生まれた幸を獲得する日でなくてなんであろう」と言っている。(「誰が東亜の癩を戡定するか」愛生 1942年4月号) 早田皓は、のちに、沖縄愛楽園の園長となり、その地で沖縄に於ける癩患者の強制収容、強制労働に奔走した人物でもあった。
国立療養所 | 1940 | 1941 | 1942 | 1943 | 1944 | 1945 | 1946 | |
長島愛生園 | (入所) | 1533 | 1784 | 1883 | 2009 | 1851 | 1478 | 1299 |
(死亡) | 119 | 138 | 167 | 163 | 227 | 332 | 163 | |
沖縄愛楽園 | (入所) | 304 | 357 | 483 | 503 | 835 | 657 | 518 |
(死亡) | 17 | 19 | 12 | 18 | 58 | 58 | 252 |
沖縄愛楽園の死亡率が1945年に激増しているが、これは空襲によるものである。米軍が癩療養所を誤爆したことは、戦争犯罪であったが、この空襲時には、患者は全員防空壕に避難していたために、直接に爆撃で死亡したものは少数である。しかし、防空壕を掘る作業は患者の強制労働であり、そのなかでの生活という劣悪な環境が死亡率を増加させた。(清水寛 第二次世界大戦の障害者(1)−太平洋戦争下の精神障害者・ハンセン病者の人権−)埼玉大学紀要教育学科、39巻1号 1990)