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延原時行歌集より  投稿者:丹仙 投稿日:2017/05/28(Sun) 17:02 No.15  

〇(4日)げにまさかとやの歌八首



 一 朝夢に何かごっつい事あると我妻示す拙著上昇

 二 誠にやごっつい事やありたるよ『平安』上昇げにまさかとや

   (備考:『平安ありて平和なる』なり)

 三 此度のや新著時代に容れらるる嬉しきやそも楽しきやげに

 四 面白き一事やこれぞ我が歌を腑に落つるまでひとがた耽読

   (備考:読了せずとも途中を楽しむ:歌ひとつずつ味読の故ぞ)

 五 この頃の簡単本や読み飛ばす我が書や楽し読了せずとも

 六 かかる書を書きて時代に供するや如何にこの我恵まるる哉

 七 我や知るこの書成りたる妻の笑み深く学びし故正しくぞ

 八 人類(ひと)文明きのこ雲をぞ出ださむと誇る国あり百年持たず



〇5日)我悟るの歌十三首



 一 我悟る核如何にもや要るとする国の人達いのち単観

 二 今生のいのちの他や知らざるの狭隘こそや核欲の因

 三 先ず此処に原受肉のや尊重や無きぞ悲しき薺(なずな)見へずや

 四 而してや思ひ出なべて献げ往く御国いのちを尊びもせず

 五 いのちとは勝敗のみが決するの狭隘でなし絶するも笑み

 六 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば

   (備考:復唱)

 七 米国の核の圧迫あるよりも単一いのち心狭むや

 八 核欲や単一いのち妄執ぞ何故に知らざるいのち多様と

 九 核欲はいのち狭むやその限り民の暮らしは貧しかりけり

 十 遂にはや汝が核米まで達するも民の竈(かまど)に煙立つかや

 十一 核欲に走るより先いのちのや多様考究哲学枢要

 十二 核欲やいのち貧困産むだけぞ南同調新政治かや

 十三 短期にや核欲利得ありともや信頼無きの国未来無し



〇(6日)「哲学の喜び」完成の歌二十二首



 一 いよいよに我が哲学の誉なる『哲学喜び』脱稿完成

 二 隅からや隅まで推敲完読す「前提」「深化」「展開」「帰結」

   (備考:四部構成、十五講義とエピローグ、より成る)

 三 「チェンジのや時代に根底省察す滝沢語録読む」や嬉しや

   (備考:これ副題なり)

 四 おもむろにキイワーズなる存在と本質の結合よりぞ我始む

 五 それをしも一本のぞやチョークにて例証しつつ語るや楽し

 六 個物にや性格合し物といふもの在るやとぞ君知るごとし

 七 サルトルやそも実存の本質に先行なすを人に観る

 八 しかもぞや人間はじめ無なりとや誠根基や仲介や無し

   (備考:「仲介なし」とはサルトルの語なるも、ホワイトヘッドは「事(じ)は形相に依らず、創造作用の直接のcreature[被造物]なりと言ふ。
[PR, 20])

 九 恩師のや語録辿りてサルトルとデカルト省察楽しや楽し

 十 見事なり「人間自由あるべきと宣告さるる」存在証明

   (備考:サルトル哲学の本務は、「人間は自由であるべきと宣告されたり」により人間の存在論的証明をなしたるにあり、とは尊き事なり。これ、神は「何物も
それより勝るとは考えられ得ざるあるもの=無が(それより)勝ると考えられ得るあるもの:aliquid quo nihil maius cogitari
possit.」と言ふ「神の名」を基軸にして神の存在論的証明を本務となせるアンセルムスと真逆の証明に命賭けたる人なり。彼の哲学は実存主義なり
と知る者や多しが、その裏にデカルトを介してアンセルムス在りと知る人(恩師滝沢克己を含めて)多く非ず)

 十一 サルトルが人に就きてや実存の先行語る(神真逆)とや

 十二 その辺り恩師見逃す惜しきやも原点哲学神証明見ず

 十三 サルトルや「無と他者」論ず辺りやはケノーシスのぞ始め穿つも

   (備考:『存在と無』に於いてなり。これ『ピリピ』2・6に対応すと我見るなり)

 十四 我やしもデカルトのそも神証明奥底にぞやアンセルム読む

 十五 遂に我「神我ら共います」のぞ存在証明果たしけるかも

   (備考:これ、世界初めての試みなり。存在論的証明に三つあり:@神証明(アンセルムス成せり);A人間証明(サルトル成せり);B「我らと共にいま
す神」証明(我延原時行成せり)の三つなり。それぞれを混同せぬ事重要なり。然るが故に、サルトル「少なくとも人間におきては実存本質に先行す」と言ふなり。こ
れ(言外に)「神に於いてや真逆なり」と言はむとす)

 十六 我やしも「原事実」をぞ改変す:《原事実「新現在」を産む》

 十七 Cogitoや「在りて考えざるを得ぬ」我思ふ謎遡及ergo sum.

 十八 原事実「新現在」を産む喜悦我思ふ時我と共なり

   (備考:それをしも、我「哲学の喜び」と言ふなり)

 十九 哲学の喜びやしも文明の中核成すや核欲や退く

 二十 「平安やありてこそなり平和なる」哲学喜び平安なるぞ

 二十一 「平安」本内から促進「喜び」本かくて「平和」のなる秋(とき)ぞかし

 二十二 哲学の喜び修練すすまばや核欲なぞやこれ何やそも



〇(7日)此処事件なりの歌五首



 一 歌作ることほど我が日尊きと感ずやなきや此処事件なり

 二 此度の書一章二章は論文も三章全面我が歌ぞ占む

 三 日に日にや歌思索にぞ打ち込むや「平安ありて平和なる」出づ

 四 一書成りその心をぞ先達や「信仰心を深む詩」とぞや

   (備考:西村恵信先生御葉書三月三十日付にあり、深謝無尽も:「昨日、ご近著『平安ありて平和なる』を拝受しました。益々信仰心を深め、その詩的表
現を磨き上げられていくプロセスに敬服させられるばかりです。本書の如き延原先生でなくてはあり得ない東西に亘る現代の信仰告白であり類書の追随を許すことはあ
り得ぬ稀書と信じます。奥様の微笑が見えるようです。小生も多くの著書を書きましたが、もう往年の気迫がありません。御礼までに」)

 五 我が級友(とも)も便りありたり驚きの文字贈り来ぬ「延原哲学」

   (備考:同志社級友、元同志社宗教部教授工藤弘志君より書簡4月29日拝受、深謝無尽も:「拝復 御新著『平安ありて平和なる』をお贈りいただき、ありが
とうございます。今回はまた、日記風の語録集で、数々の歌と共に、哲学的心境を一層、深めておられるご様子、少しずつ味読させていただいております。まだ読了はし
ておりませんが。

 小生はここ数年、にわかに忙しくなりました。同志社停年退職後も乞われて続けている「新約聖書のギリシャ語原典購読」(毎週木曜日。現在は私塾のようなも
の。受講生には中高年の女性数名。牧師二人、ドイツ哲学を教える大学教授、ヘブライ語や現代ギリシャ語の達者なドイツ人教授とその夫人など、計十名。楽しいひとと
きです)やら、希望ヶ丘教会(遠藤勇牧師)と西が丘教会(代務者・小柳伸顕牧師)で月一度の説教、さらにさまざまな人々との交流の機会も増えて、退屈する暇もあり
ません。お蔭様で元気ですが、82歳にもなって、こんな刺激的な日々が訪れるとは思ってもみませんでした。望外の喜びです。いつまで体力が続くことやら。

 それにしても貴兄の思索の深さ、筆力のエネルギーには遠く及びません。これからも、「延原哲学」の宇宙的深化と発展を祈っています。

 感謝しつつ。

 二〇一七年四月二十九日

                                   工藤弘志拝

延原 時行 様」)

 六 善きやこそ感謝尽きざる先達と級友(とも)ありてぞや此処事件ぞや



福音連歌 Linked poem of Evang... 投稿者:丹仙 投稿日:2020/01/01(Wed) 13:36 No.97  

牛は知り驢馬も知りたる飼葉桶
      十字姿に眠る嬰児
聖母汲む井戸に降りたる空の星
      今も輝く深き水底

(Literal translation of the above Japanese linked poem of Haiku)

Ox recognizes a newborn baby and Donkey also knows
The way from the manger to the cross.
Having descended unto the well our lady once drew
Heavenly stars shine in the depth of the water now



延原時行歌集より 投稿者:丹仙 投稿日:2017/05/28(Sun) 16:59 No.12  

〇(12日)立ち直りいざの歌十首



 一 春になり庭木茫々繁茂すやシルバー人材頼み散髪

   (備考:5月9日記す)

 二 今日の日や五十嵐さんや久々に段取りに見へあれこれ談ず

 三 かくてこそ妻の造りし我が家のや庭の整備やあす金曜日

   (備考:今日11日記す)

 四 ゴールデンクレスト様に冬の雪負ひ被りしも立ち直りいざ

 五 春爛漫華やぎてこそ楽しけれ雪何物か立ち直りいざ

 六 『平安』本この冬越えて出でにけり三周活に間に合ふや嗚呼

 七 今までにげに見ぬほどの反響にこれも人生妻笑むやこそ

 八 哲学欄六万七千件ありて四百位とはなぁノーちゃんでゃ

   (備考:へえ、嬉しい嬉しい、おめでとうね、父さん)

 九 オバマ氏や平安ありて平和なる人類(ひと)コア矛盾懺悔友抱く

   (備考:復唱)

 十 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば

   (備考:復唱)



〇(13日)げにも尊しの歌六首



 一 ことりとやポストに振替先達の『平安』注文げにも尊し

   (備考:伊丹教会の大先輩山中均之先生よりなり。一流の経済学者なるも神学にも造詣深く、伊丹教会の設立(1949年)以来の重鎮、我が隠岐の島の叔父山
口貞美(昨夏91歳にて帰天)の親友なりし御方なり)

 二 恐らくや島本兄の宣伝や誠祐けぞげにも尊し

   (備考:我が伊丹教会にての高校(神戸高校)大学(同志社神学部)時代、さらに伝道師時代以来の親友島本健二氏の始めし「インマヌエル研究会」の熱誠あり
ての事ならむ)

 三 今日の日や五十嵐さんら庭整備見事や見事木々に笑みあり

   (備考:新発田シルバー人材センターの働き人尊し)

 四 雪の日にこんな日がそも来やうとは庭木も我も知らざりきなり

 五 思はばや雪の日我や『平安』本力尽くして書きおりしなり

 六 今ではや「一時的にや在庫切れ」さてさて如何な時来るやしも



〇(14日)驚き三つの歌四首



 一 昨日や三つ驚きありたるや献金/上昇/UP案なり

 二 幼稚園クラスメイトの坂本君『平安』の上梓祝ひて献金たまふ

   (備考:伊丹市立幼稚園クラスメイトの坂本武君、1962年日本キリスト教団伊丹教会伝道師に我就任したると聞き、我が説教聴きに毎週見へ、礼拝後必ず質
問ありたり:「一介の筋肉労働者にキリスト教は、いったい、なんやねん?」その結果は、この返答なりき:「坂本君、ええか、その答えはこれや。新年度か
ら君の言う《労働者の現場》とか言ふ所に行く。」かくて1964年春、伊丹、宝塚、尼崎での日雇労働者に我成り、川西の加茂で開拓伝道、加茂兄弟団を始めた
り。我が青春の修行道場なりき。坂本君は伊丹教会で佐藤健男牧師から受洗したり。以来、半世紀我が著書出るごとに我送りたり。彼その毎に献金す。何たる神に在る友
垣ぞ!)

 三 我が訳著『プロセス神学』急上昇アマゾンにてや二十万位

   (備考:詳しくは、ジョン・カブ、デービッド・グリフィン共著、拙訳『プロセス神学の展望――概論的解説』東京・新疆出版社、1978年、なり。渡米先ク
レアモント神学院にて大奮闘の訳業なりき)

 四 もうひとつ熱誠の友メールあり往復書簡やUP如何と

   (備考:それがぞや、我の作物の多くのブログUPを手掛けたる鳥飼慶陽師(神戸番町出合の家)による、恩師滝沢克己先生と我とが1960年代初期か
ら1984まで続けし、往復書簡の公開UPに関する提言、May 12: 9:25 PM,なり。我が応答以下、May 13, 6:36 AM、の如くなりき:
「鳥飼先生 第42回延原時行歌集のテキスト化誠に有難うございます。仰せの往復書簡のお宝の事、モチーフはこの頃、どうも、「原受肉」ではないかな、と思ってき
ています。長い長い間、滝沢先生とは対話を許されてきたのですが、先生の「インマヌエルの原事実」に対して私は、そもそも「インマヌエルの原義」がどこにある
か、という問題提起をしてきた結果、今でははっきりと『ヨハネ』1・1・第二項「ロゴスは神と共なりき」(pros ton theon)がそれであると認識する
ことが出来ています。ところが、滝沢先生は。「原事実」とおっしゃって、『ヨハネ』1・1・第一項「太初のロゴス」に依拠された結果です。これには、従って、第一
項は第二項とどのような関係が在るのか、という神学上哲学上非常に大切な問いが伏在しています。先生はその事実に無関心でいらした。ただ、今度の拙著に初め
て公に収めさせていただいた、ご書簡1983年7月1日夕付に明らかなように、神性の個々の事実への現れ、という認識ははっきりと持っておられた訳です。

 そうなのですが、先生はずっとその事をヨハネロゴス論の原典に即してロゴス論としては明らかには一度もしてこられなかった。私は最近では、問題が「原受肉」で
あると、明らかにするようになりました。7月の国際ホワイトヘッド学会のポルトガル大会で、「原受肉」の問題を英文で発表いたしますから、世界中に公表されるわけ
です。

 「原受肉」とは、@インマヌエルの原義は、「ロゴスが神と共であった」という、世界と人間の事を含まない、ロゴスと神(天父)の関係の問題のところにあるとい
う事だったのですが、Aそれが「太初のロゴス」に内在する、という、内三位一体的事情、内三位一体的消息、内三位一体的変貌を経ている、その結果、世界内的事
実を招来しているという問題、大問題であります。この大問題を正確に正直に踏まえないと、滝沢の「インマヌエルの原事実」は、学問的に提起することが出来ない、と
いうのが、私の「原受肉」の問題提起であるわけです。

 この事をはっきり出さないと、往復書簡の公開の意味は、あまりないと思います。そういう風に思うようになりました。

 いずれにしましても、この問題は、今度の私の学会発表で明らかにいたします。そのまえに、『哲学の喜び――チェンジの時代に、根底を省察する滝沢語
録を読む。』でも、予備的に指摘され(ここではほんの少しだけ)、次著『カール・バルトと滝沢哲学の<あいだ>―−祈祷論、キリスト論、アンセルムス論を背景にし
て「原受肉」の提案』において本式に、英文著:Christology, Buddhist-Christian Dialogue, and Divine
Ecozoics: Three Theological Adventures in Process Perspectiveにおいて世界的に発表、というこ
とになります。そういう背景があって、往復書簡の公開は意味がでてくる、と思っています。

 私としましては、このような事情で、滝沢哲学は、漸く新たに面白くなった来ました。『哲学の喜び』は、このような事情の中で、只今、小野寺先生にご閲読いただ
いております。さて、どのようにお感じになりましょうか。興味津々であります。

 右、お礼方々ご返事まで

 草々不一

 IXIA!

 延原時行」鳥飼慶陽師の再メール便5月13日土曜日 8:21「延原先生 おはようございます。そうですね。いっぽいっぽ、新しい省察と著作の進展があって、
「往復書簡」のお宝は、その中で生かされていけばいいですね。必要があれば、ご遠慮なくお申し付け下さい。強い雨です。これからブログのUPに取り掛かります。

 どうぞ、よい一日を!

 IXIA!

 鳥飼慶陽」)



昨日はありがとうございました 投稿者: 投稿日:2017/12/03(Sun) 01:13 No.62   HomePage
田中 裕先生

昨日はミュンヘンにて、深いご研究に感銘を受けお話お伺い申し上げはじめ 不覚にも本サイトなど歌壇ご主催とは存じ上げず、大変驚くとともに心からうれしくお話お伺い申し上げました。現在進めております 金子兜太さんの36句12カ国語翻訳など、プロジェクトに関連して 電子メールもお送り差し上げたく存じます。私は一作曲家・演奏家に過ぎず、自身は句などあまり捻らないようにしておるのですが、このような場をお作りと知り、こころそぞろ動くものを感じております。なにやらゆかし すみれ草   ご机下 伊東 乾 拝



平安ありて平和なる 投稿者:丹仙  投稿日:2017/05/30(Tue) 08:54 No.18  
延原時行先生

考古堂より本年2月に上梓されました『平安ありて平和なるーホワイトヘッドの平和論、西田哲学、わが短歌神学日誌』御恵送いただきまことに有り難うございました。

御著書の副題は英語にて Peace Brings About Earthly Peace とありましたので、最初のPeaceを「平安」と二番目 Earthly Peaceを「平和」と、日本語で区別されたのであると思いました。
 
「みこころの天に行われるとおり、地にも行われますように」という主の祈りの示すように、最初の「平和」は「(主の)みこころの平安」すなわち「キリストの内にある平安」を意味するでしょう。

ホワイトヘッドの晩年の著作 Adventures of Ideas (観念の冒険)でいう「観念(イデア)」を私は、神学の文脈では、主の言葉ないし物語りと理解しています。それは、空間的に云えば「天上より地上へ」の聖霊降臨であり、時間的に云えば「未来から現在へ」と到来し(advent)、我々に冒険(adventure)を促す聖霊の働き(spiritual act)を意味するでしょう。

ホワイトヘッドの平和論を、このように理解することができるならば、それこそが、今此処で恵まれた「主の平安」のうちにあって、「復活の喜び」をもって地上に「平和を作り出す人たち」を鼓舞する力となるでしょう。

ポルトガルの国際学会にてご発表予定の「原受肉」についての御講演を心待ちにしております。
 
日本の大地的霊性に根ざしながらも、天上より来たる福音の言葉のもつ普遍の信仰、聖霊の時代にふさわしき「御友」神学 の誕生を祝しつつ、平和の器となりて地に平和を創り出す人々の平安を祈ります。

田中 裕

ー延原時行先生の「短歌神学日記」を拝読してー

返歌: 吾が心底無き底は天上の御国に通ず永遠の御友   



Re: 平安ありて平和なる 延原時行 - 2017/05/30(Tue) 09:03 No.19  

田中 裕 先生

素晴らしい御返事を蕪雑な拙著に戴きまして、お礼の申し様もございません。心より厚く御礼申し上げます。


 永遠の 御友いますや 無底より 御許に至る 大乗基教

私は「平安ありて平和なる」宇宙原則なくば、人類(ひと)は、現米政権がホワイトハウスに掲げる如く「軍略ありて平和なる」Peace only comes from strength.へと流されてゆき、北との対峙の内に、核戦争にかまけ、おそらくその文明はあと百年持たぬことでしょう。その意味では、オバマ氏の成し得たことは、この時に、不朽の意味がありましょう。そして、広島と長崎の被爆者の方々の忍耐が如何に偉大なる達成であるか、人類全体の認識と感謝と成らねばなりません。

空爆されればテロで復讐する、いまのテロ問題が、広島と長崎ではありませんでした。これは誠に不思議な事であります。これは、日本には、「平安ありて平和なる」文明が、大拙の言う「日本的霊性―大地性」として、存在し続けている、証拠でございましょう。今、田中先生は、その文明を、キリスト教信仰の奥底に流れる聖霊降下として美しく詠われました。そして、ホワイトヘッドの『観念の冒険』の形而上学的意味として解釈されました。見事です。

私は最近今度の拙著の前に『哲学の喜び――チェンジの時代に、根底を省察する滝沢語録を読む。』を完成しました。近く公刊したいと念じております。その主旨は、恩師滝沢先生の「原事実」を受け継ぎながら、私の「根源論は根源ではない」という自己否定(アガペー)に立脚して、《原事実の「新しい現在」の産み出し》を哲学原理とする立場を、滝沢、サルトル、デカルトの厳密な批判的哲学的読みから、提言しております。Cogitoの厳密な再考をなし、「存在して考えることをしないではおれない」必然的事実を経たうえで、この事実にサルトルの言う「仲介なし」、ホワイトヘッドの言う「一切の存在者は直接に創造作用の被造者であって、形相による媒介を必要としない」 “The definiteness of fact is due to its forms, but the individual fact is a creature, and creativity is the ultimate behind all forms, inexplicable by forms, and conditioned by its creature.” [PR, 20]消息を感得します。その上で、哲学的反省の中で、遡及的に右の消息を意義深く承認する意味で、ergo sum.と結語します。それをデカルトは元々(考えるあいだ、在る)と言っていました。これは、「花は咲いているあいだ咲く。」「古池や蛙飛び込む(あいだ)水の音(古池即蛙、蛙即古池)」と同じ宇宙に一貫する真理です。

この(あいだ在る)真理に「新しい現在」において撞着する自己自身のことを私は、哲学の「喜び」と申します。この「哲学の喜び」の修練を、これから、核時代の中で人類が基本的文明としてゆくことを「平安」と、哲学的に名付けることが必要だと考えています。これは「平安ありて平和なる」の「平安」の聖霊論的理解の世俗的側面であります。それなくば、脱核は可能ではありません。人類文明は百年と持たぬことでしょう。

右、お礼方々

草々不一

延原時行



延原時行歌集より  投稿者:丹仙 投稿日:2017/05/28(Sun) 17:02 No.16  
〇(5月1日)楽しきがゆえの歌十首



 一 如何にもや核角逐やあらむとも平安ありて平和なるのみ

   (備考:【ソウル共同】北朝鮮は日本時間の29日午前5時半ごろ、内陸部の南道北倉付近から北東方向に弾道ミサイル1発を発射した。日本政府によると、ミ
サイルは約50キロ飛行して北朝鮮内陸部に落下。韓国軍は、発射は失敗との見方を示した。米政府と北朝鮮との緊張がさらに高まった。『新潟日
報』2017年4月30日付)

 二 野の花や如何に育つか知らんむとて御友共にや原受肉聴く

   (備考:これ、人生態度、世相観察の基本なり)

 三 幾度や『哲学喜び』読み返す何故ともなくや楽しきがゆえ

   (備考:まだまだ推敲中なり)

 四 今日の日や淳久堂にて書参せり地階に『平安』ずらりと展示

   (備考:『平安ありて平和なる ホワイトヘッドの平和論、西田哲学、わが短歌神学日記』なり。良寛本四著は一冊ずつ)

 五 一階の郷土コーナー良寛本三著並びてご苦労さん

   (備考:『宇宙時代の良寛 エコ神学者トマス・ベリーと共に』、『宇宙時代の良寛再説

ホワイトヘッド風神学と共に』、『良寛「風の歌」にちなんで 御友神学の省察』なり)

 六 本まこと命や永き作物ぞ『政治神学』十四年もの

   (備考:拙著『地球時代の政治神学 滝沢国家学とハタミ「文明の対話」学の可能性』福岡・創言社、2003年、など刊行14年して漸くジャンプ・アップな
り。忍耐肝要なり。本の実質は時代の実質との関数なり。時代の実質なかなか現れず。それ現れし時本上昇す。だが、著者には、書きたる時の切れ味内に明らかなり。自
信肝要なると共に、具眼の評者は有難きなり)

 七 基教のや実力誠「原受肉」それ知る人や御友と友ぞ

   (備考:かかることども思ひつ書参せり)

 八 ふと思ひCoCoLo構内田中屋で笹団子をぞ送るや嬉し

 九 久し振り小嶋屋天へぎ啜りつつ今日の歌など一覧楽し

 十 このところ歌詠みながら英文稿「原受肉論」下書きす

   (備考:七月の国際ホワイトヘッド学会[ボルトガル]のためなり。五月に執筆と行くか。アブストラクトは先刻送付済なり)



〇(2日)かくも美味とはの歌八首



 一 この頃やセブンイレブン発売のカルビー麦飯弁当愛す

 二 何程か斬新なるが気に入りぬ自分づくりの飯これ良きも

 三 魚沼のコシヒカリ米銀シャリにウオロク刺身言う事ぞなき

 四 週一度コモタウンのや魚六のレーズン麺麭を買い置くぞ佳し

 五 こんがりとオーブンで焼き珈琲と苺と食す味なもの哉

 六 朝餉にやお湯かけ飯に原信の烏鰈(からすかれい)や我が常食ぞ

 七 その後やレーズン麺麭に珈琲や野菜沢山健康食ぞ

 八 昨晩やご近所様よりどっさりと蕨(わらび)お浸しかくも美味とは



〇(3日)どうもぞやの歌十一首



 一 どうもぞやG7がや結束の気味ありとぞや感ぜらるるや

   (備考:日本国その重要なる一翼なり)

 二 「平安」や如何な結束象徴か人類(ひと)すべてがや思索せむとす

 三 オバマ氏や平安ありて平和なる人類(ひと)コア矛盾懺悔友抱く

   (備考:復唱。これ拙著『平安ありて平和なる』巻頭の短歌なり)

 四 『平安』を形而上学短歌にて了と成したり如何に佳き哉

 五 創作用そも究極事性(さが)なすや無自性なるに大悲事(じ)に寄す

   (備考:復唱。これ我が最重要の形而上学歌なり。ホ氏の創造作用を極点にして「事」≪=最も具体的なる生≫に至る)

 六 その時代形而上学から見てや如何な識見領導するや

   (備考:これ、時代の基本的問ひなり)

 七 イマヌエル翻へりてや原受肉無自性なるに大悲事(じ)に寄す

   (備考:これ我がイマヌエル哲学歌なり。イマヌエル観を極点にして「事」に至る。西田ならば、絶対自由の意思が翻って己自身を見た時、そこに無限なる世
界の創造的発展がある、と言ふ所なり(『自覚における直観と反省』287頁、参照)

 八 トランプ氏北を睨みて如何に処す形而上学如何なりそも

 九 「軍略やありて平和」の観点や米北共に「平安」欠落

 十 このざまや人類最深文明を見ずして通る不埒ならずや

 十一 驚きぬ『平安ありて平和なる』急上昇やこれも御摂理

   (備考:アマゾン5月1日付にて64,431位なり:哲学67,475件中717位;宗教哲学7,379件中143位;神学4,469件中34位;哲学神
学1,324件中4位;キリスト教哲学11,526件中227位;平和論4,968件中10位;平和哲学3,513件中9位;西田哲学527件中6位;ホワイト
ヘッド191件中12位など、御摂理の如)



延原時行歌集より  投稿者:丹仙 投稿日:2017/05/28(Sun) 17:01 No.14  

〇(8日)学恩窮むの歌七首



 一 恩師のや学恩窮む志バルトとの<間>先達も良しと

   (備考:この思ひ小野寺功先生と我抱けるや、往復書簡に記されたりや、先生4月27日付、我三月、四月の「風の便り」に開陳せり、嬉しも:「蕪雑な拙
著に、尊い御書簡2月27日付を賜わりまして、誠に恐縮に存じました。心より厚くお礼申し上げます。尊い御激励なくば御教導なくば、此処まで辿れずとの思いがつく
づくいたします。

 実は定年退職いたしました2008年4月から十七年間に亘る敬和に於ける(チャプレン職とは兼務の)哲学教授の仕事「哲学講義」の講義録を本にするべく一
応の原稿を成していたもの、もう一度推敲いたしておりました。その最後のところで実は、先生の御著書『聖霊の神学』の御言葉がどうしても出て参りました。

 どうしてお言葉が出て来たのか、『哲学の喜び――チェンジの時代に、根底を省察する滝沢語録を読む。』全篇に於ける滝沢哲学の学びに併せての、私の《原事
実の「新しい現在」の産み出し》という哲学原理の展開、サルトル論、デカルト論、デカルトの神証明の妥当性の、滝沢のデカルト批判に抗しての解明、――の辺りから
の文脈に於いて、御言葉の引用に必然性が出て来た様なのであります。

 原稿の推敲の最終段階を終えいました所で、一度『哲学の喜び』の御高覧を仰ぐことをお許しいただけないでしょうか。

 今日は三月と四月の「風の便り」、ドイツの出版社から拙稿英文を読んだ上での本にしないかとのオファーへの返事など、――例によりましての身辺雑記でございま
す。お許し下さい。

 毎日食事時に御令室様のため、「天上での御祝福」をお祈りいたしております。

 右、お礼方々、お願いまで

 草々不一

二〇一七年四月二十日                          延原時行拝

小野寺 功先生」2017年4月27日付小野寺功先生御返書あり、深謝無尽も:「 庭にはつつじの花が咲き、若葉の季節となりました。ご無沙汰致しております
が、お変りもございませんか。先日は「風の便り」を有難うございました。

 延原先生の独自な哲学的神学、御友神学の生成過程が克明に活写されていて、啓発されること多大です。新しく計画されている著作に「カール・バルトと滝沢哲
学の<あいだ>」があり、改めて私が期待する内容の一つです。私もカトリシズムの立場から、ここを正確に把握したいと思っております。

 お便りに啓発されて『対話論神学の地平』を読み直しましたが、日本の神学の究極の課題である「二究極者の問題――空と神」が正確に把握されていて、私の「三位
一体の場の神学」と相接していることが再確認されました。ここが私の到達点であり、始発点でもあります。

 「今日の大発見”with”の歌八首」は、さらにその「場」の解明の試みとして拝読しましたが、その一層の神学的展開を期待致します。日本の今の神学的、哲学
的状況では、迫りつつある「核惨事!」を乗り越えることはできません。

 学兄の鋭敏な文明論と時代感覚にいつも教えられています。

 家内のため、いつも祈っていただき、心から感謝致しております。

 では御健康にはくれぐれも御留意下さい。

 四月二十七日                           小野寺 功



延原時行様」

 二 されど我学恩まずや「語録」にや認めて一書「喜び」脱稿

   (備考:『哲学の喜びーーチェンジの時代に、根底を省察する滝沢語録を読む。』なり)

 三 十七年敬和で哲学講じ来て「哲学喜び」集大成や

 四 「哲学の喜び」誠先達に御高覧をぞ願はしやこそ

   (備考:我が小野寺功先生宛て御返書5月5日付、これなり)「拝復 四月二十七日付御芳書誠に有難う存じました。心より厚くお礼申し上げます。

 先に御願い申し上げて居りました様に、拙稿「哲学の喜び――チェンジの時代に、根底を省察する滝沢語録を読む。」の御高覧誠に有難うございます。ここに同封さ
せていただきます。よろしくお願い申し上げます。

 此処では滝沢思想を「カール・バルトとの<あいだ>」に問うよりも、純粋に哲学的領域内の事といたしましてサルトルとデカルト、滝沢先生の御言葉で申します、
「近代の入り口と出口」の設問に関して考察いたします。

 私の想定では、この試みが成功いたしましたならば、核に世界の問題の頂点を見定める国々(米や北)は他の選択の考慮を促される事と成ります。即ち哲学の喜び
を、地球文明の先端として、涵養いたします事がこれであります。



 何時も貧しい思索の者を御教導いただきまして心より厚く御礼申し上げます。

 右、宜しく伏して御願い申し上げます。

 草々不一

 二〇一七年五月五日                        延原時行拝

小野寺 功先生」)

 五 「喜び」の末尾に到り先達の「聖霊神学」響き冴えるや

 六 学術の尊き故や対話にぞ在りけるとぞや我覚えけり

 七 滝沢の語録学びて先達の聖霊神学遂に会得す



〇(9日)我が歌妻箴言而して笑みの歌十二首



 一 我が歌を聴かば胸にぞ清き水流るるが如感ずとや妻

 二 妻の言ふ「父さん勉強時間ない」我や言ひたり「原稿十巻」

   (備考:看病の迷惑相済まぬとは、妻の絶えざる心配なりき)

 三 「我もぞや一度は言ふて見たかった」安心したる妻や言ひたり

 四 半世紀書き来りしや「十巻」やありて我ぞや余裕綽々

 五 これありて看病只管打坐なりと我や励みし嬉し嬉しや

   (備考:我妻一生我が内助の功を米国15年を含む四十余年尽くしたる故、今度は我の尽くす番とぞ我心に清々しき思ひありたり。これ、半世紀の「原稿十
巻」の余裕ありての事なり。我の通例として、脱稿してもすぐには出版せず、老後の楽しみにせり。執筆一生仕事と決めたる故なり)

 六 春の朝リハビリ室に入るなり妻や書きたりGod blessed the good dayとぞ

 七 復活主現臨せるや使徒パウロ光満つ如我もとや妻

   (備考:2011年3月9日新潟県立リウマチセンターリハビリ室にてなり。五十嵐セラピスト一枚の紙を出して「延原さーん、ここに何でも一筆書いてくださ
い」と言ふに妻さらさらと書きたり:God blessed the good day of self-reflection and
self-dedication.)

 八 この日から英文箴言書き始む漸く我に負けじとや妻

 九 遂にはや三十条を完成す療養よりも箴言没頭

   (備考:2011年3月9日新潟県立リウマチセンターにて始め同年9月10日豊浦病院にて「延原信子英文箴言」完成す。拙著『復活の省察[上
巻]――妻と歌う:生くるとは深き淵より共々に甦ること喜びてこそ』新潟・考古堂書店、2014年、63-67頁、参照)

 十 「本作る父さんやって」吐露せるや命賭けたる二人三脚

   (備考:2011年2月13日北越病院にて祖父江八紀ドクター「何したい」とご質問ありたるに妻「本作る」と答へ、ふと振り向きて我に「父さんやっ
て」と言ひたり。余程の決心の上なり。己の生死を糧に本作りを決意し、実作者は我なりとのことなり。此処に「二人三脚」始まりぬ)

 十一 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば

   (備考:復唱)

 十二 笑みこそや生死の切れ目なき箴言輝き出づる御友共にて



延原時行歌集より  投稿者:丹仙 投稿日:2017/05/28(Sun) 17:00 No.13  

〇(10日)心底より「平安ありて平和なる」歌十首



 一 オバマ氏や平安ありて平和なる人類(ひと)コア矛盾懺悔友抱く

   (備考:これ、拙著『平安ありて平和なる』の巻頭の歌なり)

 二 この時代益々本書欲するや核の愚昧を省察せむと

 三 核もはや省察だけで躱(かわ)せぬよ心底より歌詠み仰ぐ

 四 天仰ぎ平安平和祈らなば核にて人類(ひと)や百年持つや

 五 人類史そこまで来る覚え無くうかうかとぞや破滅瀕すか

 六 人類(ひと)といふ者罪深し広島や長崎惨事ちと軍略ぞ

   (備考:ちと軍略とは、米軍上陸作戦では百万米戦士の消滅「一億玉砕」の日ノ本決意の前に予想して「原爆で済ますこと」にしたる故なり。かくて、二度と核
投下やあらず。あらば、人類絶滅の契機なり、核応戦当然あらば。それにせよ、核投下にぞ抗してや、日の本(IS如き)「テロ反撃」に打って出ることなかりきや、奇
蹟なり。幾十万二発原爆ピカドンの惨事に遭ふも、被爆者諸氏ただ堪へに堪へたり。我御友共なりし奇蹟とぞ我妻笑み増し実見せし時信じたり。我が歌は其処に瞬発せ
し信仰の叫びなり。これ、見給ひし、西村恵信先生おひとりなりし我が感激なり。「本書の如き延原先生でなくてはあり得ない東西に亘る《現代の信仰告白》であり類
書の追随を許すことはあり得ぬ稀書と信じます。奥様の微笑が見えるようです。」(三月三十日付御葉書)の尊き御文字、我が心底を打つなり。而して同時に広島長
崎の被爆者諸氏、殊に御友に在りて復活せし人方の心底を打つなり!我、知性ありても歌心なき人方、この御文字断じてなき事嘆くなり。核惨事に就いてや、軍略、知
性を越えて、如何で歌心なしで人としておれやうか!)

 七 歌心社会教には無かりけり御友にありて叫ぶ人ほか

 八 軍略や狂気除くの力なし「平安ありて平和なる」げに

 九 軍略を越えにぞ越えし歌心形而上学体してぞ泣く

 十 創作用そも究極事性(さが)なすや無自性なるに大悲事(じ)に寄す

   (備考:復唱。これ、本書の〆歌なり。事(じ)とは、誰あらう、広島長崎の被爆復活者の事なり。この人方に、天父(注。天=内三位一体的神性に、至誠な
る御父)の御子、御友愛を注ぎ給ふなり。度々言ふことなれど、「天にまします我らの父」は、「ロゴスが共にいます空間にいます神」(pros ton
theon)の事にして、《共にいます空間》「に於いて在る」御方なり。《共にいます空間》内三位一体的神性Gottheitなり。これを、簡単には、
「天」と称す。「に於いて在る」は西田の用語にして、我はその含蓄を「至誠なり」と取るなり。従ひて、「内三位一体的神性」に至誠なる御神Gottこそ、天父な
り。此処を読み誤り、「天」と「父」とを同等者と見る時、至誠心を「正義」(=equity:同等意識)に換へる偽神学が発生するなり。これが、キリスト教絶対主
義(ないしはそれと同等の主義)の「世界支配」の原点なり。原爆投下は、この疑似形而上学の正義観から放たるるものの如し。原爆は究極兵器なる故、なんらかの究極
的疑似形而上学意識なきまま投下なすこと不可能なり。人間は、非究極的被造者なる故、究極兵器=核兵器を使用する権限を有さず。これ、核兵器廃絶の基本的哲学な
り。しかと知るべし。もしも、形而上学の正当なる学殖あれば、「核兵器廃絶の基本的哲学」は至当なる学的真理として受容さるべし。而してこの事、我の詠へる「形而
上学短歌」の具体的帰結なり。この故に、いかに巨大な蓄積あらうとも、核兵器の使用は、形而上学的に、非究極的被造者人類には不可なり。この事しかと知るべきな
り。我、オバマ前米国大統領の広島平和スピーチと森重昭氏抱擁は、第二次大戦中の核投下の大罪=「コア矛盾」の懺悔として、全人類が受容承認すべき事柄なり
と信ず。然りとすれば、三度目の核投下など、あるべきはずのものに非ず。

猶、付言するならば、「正義」(=equity:同等者意識)については、神が神性(=空、創造作用)に対して至誠であることの結果として「汝らの天の父が至
誠であられる如く、汝らも至誠であれ」(『マタイ』5・48)といふ御友の命法の範囲内において妥当する法意識なりと再解釈さるべし。右に記した事どもは、「平
安ありて」の釈義なり。「神神性(=ロゴスと神共なる内三位一体的空間)に至誠なる故、汝らも至誠なれ。」との命法は「平安」釈義として、人類に核投下の権限
無し、といふ条項を含む。ここに「平和なる」なりと知るべし)



〇(11日)「罪と罰」隠喩の歌十八首



 一 我やしも「いのち変貌」次著にてや描かむとぞや思量しつつあり

(備考:次著『いのちの変貌と御友神学――ドストエフスキー、ホワイトヘッド形而上学、良寛、わが短歌神学日記U』なり)

 二 第一に「罪と罰」にて思想のぞ現象学をば抉らむもぞや

   (備考:ドストエフスキーはその創作方法にて、あらゆる登場人物は何らかの思想を把持し、行動的にそれを演ずると考ふるなり。さりながら、それ故に、誰も
が「罪と罰」なる《原状況》の力学に絡めとられる如し。やがて《原状況》に現出するもの、「人間本性」なり。思想→原状況→人間本性なる、三段階にての人生の掘削
探究を窮むもの、ドストの小説世界なり。然るが故に、彼の小説、殊に『罪と罰』、現実世界の解剖に資するところあるなり:ラスコーリ二コフの他に、ニヒリスト・ス
ヴィドリガイロフ、結婚を「金銭」事と考える世俗人ルージン、皆「思想」実演者なり)

 三 或る老婆ラスコーリニコフ殺害す「虱」でなきを実証せむと

   (備考:「虱」でなき事を実証せんと何らかの思想を把持し、演ずる点におきては、現代の地球政治の舞台の登場人物の面々も同様なり)

 四 さりながら犯行後直ぐ震へくる「罪即罰」や原状況ぞ

   (備考:原状況は、登場人物の「思想」を裏切って現出するなり。つまり、思想より深き人生の動機なるなり。それを解剖するところにドストのリアリズム
の凄さあるなり)

 五 原状況脱却何処ありとぞや娼婦ソーニャの純愛のほか

 六 「罪と罰」原状況の底にぞや人間本性隠さるるあり

   (備考:人間本性は原状況よりさらにいっそう深きリアリティを開示するなり。そは、ラスコーリニコフとソーニャの出会いの中に於いてなり)

 七 この本性<愛>を契機となしつつも<超越>信ず二律相即

 八 ドスト言ふ「愛が彼らを復活へ」核脱却の隠喩ここにぞ

 九 核罪人米大統領オバマ氏や被爆者森氏抱擁復活

   (備考:人類史上初めて二発の原爆を広島長崎に投下せる米国は、血塗られたる斧を持ったまま立ちすくむラスコーリニコフの如きなりき。犯行有れ
ば「罪と罰」の力学働くなり。オバマ氏に取りてはこの原状況にありて、何が核脱却の端緒なりしか?端的に言はば、一人の抱擁の相手、被爆者森重昭氏なりき。抱
擁、彼らと彼らが代表する米日の核投下とその結果の人類犯罪の「罪と罰」の《原状況》よりの「復活」なりき!

 十 いのちのや変貌生起広島の平和公園核懺悔中

   (備考:人類史の「罪と罰」の《原状況》渦中にて「いのちの変貌」生起するなり。それをしも知るべきなり)

 十一 しかもぞや森氏の言ふや核被爆国籍やなし米兵含む

   (備考:森氏の証言「いのち変貌」の朗報ぞ:被爆者や、日米越えて、「この日を喜べり」とぞ。「喜べり」とは何なるか?彼ら皆、御友と共に復活なして、歓
喜ありやとのほか)

 十二 日米の友愛の日ぞ始まりぬ広島悔悟人類新生

   (備考:これ、原爆投下の「罪と罰」《原状況》に現出せし「人間本性」なるや!)

 十三 何故に「罪即罰」の底の底新生いのち隠されたるか

 十四 イマヌエル原受肉ぞや人生の底の底にや秘められたるも

 十五 これこそや驚天動地御神のや備えたまひし恵み賜物

 十六 イマヌエル「ロゴス神とぞ共なりき」太初の言や孕みます

   (備考:我常にくどいほど強調す:『ヨハネ』1・1・第二項にある「ロゴス神と共なりき」(pros ton theon)の意義なる「原初のインマヌエ
ル」、第一項にある「太初のロゴス」(その意味たるや、「世界の原初なる御姿」なり)に「原受肉」なさりたりとぞ。その故に、如何に潰えたりと思われども、「原受
肉」のいのち変貌尽きぬ故、御神我ら助け給ふなり!)

 十七 そこにぞや「いのち変貌」第一相輝き祐く罪罰超えて

   (備考:「いのち変貌」第一相、原受肉なり。第二相、御友神学びなり(これ、普通の意味の「神学」に非ず、御友が御父より「原受肉なる原初のいのち変
貌」を聴きて、我らに「友よ」と告げ給ふ、御友道=受肉の事なり)。第三相、御友我らの父運び、即ち復活永生なり(我の名付けて言ふ「大乗キリスト教」なり)

 十八 これこそや「いのち変貌」物語その第一話これにておしまい



延原時行歌集より 投稿者:丹仙 投稿日:2017/05/28(Sun) 16:57 No.11  
〇(15日)朝起きて一番の歌八首



 一 朝起きて一番にすは庭見なり木々や生きいき散髪見事

 二 ゴールデンクレスト様の偉容にや誠惚れ惚れ致し候

 三 辺りにや春爛漫の気や満つる五十嵐風の剪定ぞ冴ゆ

 四 花や咲くその背後にや原受肉華やぎ万物祝したまふや

   (備考:『マタイ』6・20:「きょうは生えていてあすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以
上よくして下さらないはずがあろうか。ああ。信仰の薄い者たちよ。」この信仰は「原受肉」すなわち「神装ふ」への信仰なり、キリスト教信仰ではなきなり。後者は前
者を誉め称へる所に在るなり。それを『ヨハネ』15・15は、御友は神からなべて聴き「友よ」と告ぐと、言ふなり。これ我言ふ「御友神学び」なり。思ふに、芭
蕉の俳諧此処に成り立つなり。「よく見れば薺花咲く垣根かな」。「よく見る」こそ大和心ぞ)

 五 これこそや「神装ふ」とやイエス言ふ消息なるよ原受肉の香

 六 ちなみにや原受肉とはケノーシス(遜り)には非ずなり一歩手前ぞ

 七 ピリピ書や「簒奪撥無」(oux harpagmon)とぞ記す遜りなる受肉産む因

   (備考:See the following dictum in Phil. 2:6:”[Christ Jesus] who, though he
was in the form of God, did not regard equality with God as something to be
exploited [or snatched at].日本聖書協会訳:「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わ
ず(oux harpagmon))は、むしろ、「獲るべき事とは思はず」(私訳)野方が適訳ならむ。此処では《ロゴスと神の関係》を「固守すべき権力」なる見
方があるも、それを在るといふニュアンスで聖書協会訳は「固守すべきとは思わず」となせるも、原義は、元々、「獲取すべくもない空無」、そういう意味で父から見て
も、子から見ても平等なる「空の場」《field of emptiness》への至誠心と見るべきなり)

 八 かくてこそそもヨハネ言ふ「神と共」(pros ton theon)満たしけるなり原受肉まま

   (備考:多くの「ケノーシス」論議が、その一歩手前の「ウーク・ハルパグモン」(簒奪撥無)を全く論じないでいることに反して我、ピリピ2・6を論じ、第
八首これ結論なり。2・6(簒奪撥無)を、2・7(ケノーシス論議)で代行なす事不可なり。それは、ヨハネロゴス論の場合、『ヨハネ』1・1・第二項「神と共」
(pros ton theon)を、第一項「太初のロゴス」論で代行なす事不可なると、一般なり)



〇(16日)妻の庭褒めつの歌十首



 一 我妻の造りし庭を整備すや喜悦溢るも神装ひます

   (備考:『マタイ』6・30、熟読参照)

 二 夕餉にや我妻の庭祝ひてや蟹ちらし寿司食す美味しや

   (備考:原信にて弁当まつりなりし)

 三 久々に素麺湯掻きみょうが汁つけて美味しや春の日嬉し

 四 原受肉せるや嬉しやイマヌエル原事実中何処までも「共」

   (備考:これ、ホ氏の言ふ以下の消息なり:”Viewed as primordial, he [i.e., the primordial
nature of God] is the unlimited conceptual realization of the absolute
wealth of potentiality. In this aspect he is not ‘before’ all creation, but
‘with’ all creation.” [PR, 343] 原受肉は一方、「神と共なるロゴス(pros ton theon)」(『ヨハネ』1・1・第
二項)として、「共なる空間」への至誠心に発するも、他方、原事実中に原受肉せる姿は、「太初のロゴス」(『ヨハネ』1・1・第一項)が元々被造世界の太初なる
が故に、徹底して「被造世界と共」にして、「被造世界の前」ではあり得ざるなり。知るべし、この不思議。この「共」《with》 の含蓄、以下のホ氏の最終形而上
学の記述にまで徹底したる如し:”In this Supreme Adventure, the Reality which the Adventure
transmutes into its Unity of Appearance, requires the real occasions of the
advancing world each claiming its due share of attention.” [AI, 295])

 五 我悟る「神装ひます」とはげにも原受肉のや「共」なる響き

 六 よく見れば薺花咲く垣根かな芭蕉詠ひしこの「共」咲くを

 七 神と共ロゴス在りけりそのままで世の只中に原受肉燦

 八 御友はや原受肉のぞ輝きを父より聴きて「友よ」と告ぐや

 九 告知受け我ら喜び溢るるや基督信仰御友学びよ

 十 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば

   (備考:復唱)



〇(17日)嬉し嬉しやの歌十六首



 一 歌作り転寝すれば我妻や現れてこそ和みてありや

 二 それほどに庭の手入れや嬉しきと良く判りたり嬉し嬉しや

   (備考:嬉し嬉しや=誠供養ぞ)

 三 熱誠の友や言ふなり何故やしも汝元気かや傘寿黒髪

   (備考:傘寿は本年7月23日よりなるも)

 四 恐らくや歌こそ我を和ましめ原受肉ほむ御友共にぞ

 五 我妻も庭の手入れを喜びて夢出なすなり嬉し嬉しや

 六 我妻の嬉しき心受けてぞや我嬉し故嬉し嬉しや

 七 原受肉かくや学べば北弾道ミサイル発射隠蔽のわざ

   (備考:「北挑戦は日本時間の14日5時28分ごろ、北西部亀城(クソン)付近から東北東方向に弾道ミサイル1発を発射した。日本政府による
と、約30分で約800キロ飛行し日本海に落下した。高度は過去最高の24キロ超に達し、稲田朋美防衛相は「新型の可能性がある」と述べた。通常より高い角
度で打ち上げて飛行距離を抑えたとみられ、日本政府関係者によると、実際の射程は米軍の要衝グアムが入る四千キロ超の可能性がある。」『新潟日
報』2017年5月15日付)

 八 平安やありて平和のなる道理原受肉そも孕める地燦

 九 ミサイルや民の貧困軍弱体隠蔽しつつ日本海落つ

 十 原受肉除きて世界見ればぞや北ミサイルに米威嚇そも

 十一 されど見よ我が庭の木々若やぎて豊に緑溢れける哉

 十二 原受肉秘義なくばぞやバルト言ふ「御子の従順」的失す

   (備考:バルトの巨大なる「der Gehorsam des Sohnes Gottes」を基軸にしたる和解論の体系、何故に「原受肉」に論及せざる
か?この問題恩師滝沢克己が生涯をかけてバルトに問ひたるも、彼「インマヌエルの原事実」を以て「イエスによる束縛」の固さの理不尽に抗するのみにして、原事
実に内在する「インマヌエルの原受肉」を直射せざりし。ために、問題の本質に論及するを得ず。問題の本質は、実は、御友神学なり。御友こそ、御父から(原受肉の秘
義聴きて)「友よ」と(なべてを告げ給ひたる)御方なり。「なべて」とは、バルトの言ふやうな「和解論」のみにあらず「原受肉を受け『友よ』と我らを招く全一的御
友神学/御友道」なるにあらずや。御友道とは、芭蕉の俳諧も含む、仏教的キリスト教真理なり。バルトこれ知らず。日ノ本のキリスト教界、過大にバルト神学に影響牽
引さるるため、この真理知らず。己が国の「芭蕉の俳諧」を含む真理を知らずとは?嗚呼!)

 十三 御友はや原受肉秘義父よりぞ聴きて「友よ」と語り給ふや

 十四 よく見れば薺花咲く垣根かな北ミサイルを神装はずや

 十五 北問題「原受肉」をぞよく見てや平安ありて平和なるべし

   (備考:この点、韓国新大統領文在寅(ムン・ジェイン)氏は、如何にしても己が国の状況に立ち続けて危機を脱却するほかなき民族主義者なる故、一番「よ
く見る」任務を課せられたる人なる如し。日米はちと急ぎすぎやも用意周到。中露は獅子身中の虫に難儀しおる如し。北は、核による実情隠蔽に走り居る如し)

 十六 軍略やありて平和を成すやなき「原受肉」こそ平安なるや



〇(18日)歌泉の歌十四首



 一 我妻や我が歌聴かば清き水胸に流るる心地よきとぞ

 二 今朝ほどや歌出来てこそ我が胸に清き水あり癒されし我

 三 我が歌に幾たび我や癒されし作り得たりし不思議ぞありて

 四 それ故に社会教には歌無きと我や言ふなり人為のみぞや

 五 歌の元歌泉はや我を超ゆこの世なべてを詠ふは御霊

 六 我妻と春見るべしと思ひきや命輝く新発田病院

   (備考:復唱)

 七 この歌を聴きて我妻とめどなく咽び泣きたり永久にめおとと

 八 永久にぞやめおと契りのあるならば「二度と見ぬ」など言ふ莫れ人

   (備考:ある有名なる仏僧「妻を亡くして二度と会へぬ故これはどうにもできぬ悩みなり」と言はるるも、我驚きぬ)

 九 たとへ核投下ありてもこの絆毀つことなど成し得ざるなり

 十 文明の不壊なる故や絆なりそれ覚る時核傲り消ゆ

 十一 オバマ氏や平安ありて平和なる人類(ひと)コア矛盾懺悔友抱く

   (備考:復唱)

 十二 北の核実験虚し人絆見ずして何を焦りゆくぞや

 十三 かくも汝核に頼れる見れば我人絆なき国寂しとや

 十四 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば

   (備考:復唱)



延原時行歌集より  投稿者:丹仙 投稿日:2017/05/28(Sun) 16:55 No.10  


〇(19日)華やぎの日の歌十八首



 一 我にとり原受肉のや光ほど眩きまでの感動ぞなし

 二 これを我いのち変貌一と言ふ「神共ロゴス」「太初」孕める

   (備考:恩師滝沢の言ふ「インマヌエルの原事実」正確には、「インマヌエルの原事実孕める原受肉」なり。何となれば、『ヨハネ』1・1・第二項「ロゴ
ス神と共なりき」(pros ton theon)こそ「インマヌエルの原義」にして、これ、内三位一体的変貌なる第二項の第一項「太初のロゴス」への内在により
てこそ、「いのちの源」成り立つを得しめられたる故なり。「いのちの源」を恩師「原事実」と言ふも、原事実のみにてや「いのち」成り立たず。「絶対の偶有性」と滝
沢言ふも、偶有性の真っ只中に「共なる命を慮る目的性」なくば、そもそも「いのち」あるなし。ここに、私見によるならば、哲学的に言って、《原事実の「新しき現
在」の絶えざる産み出し》こそ哲学原理なり。神学的には、これを、《御友神学》とは言ふべし。その意義や、「いのちの変貌一」を父より聴きて、なべて
を「友よ」と我らに告ぐるところに在るなり。これ「いのちの変貌二」なり。いや果てに、御友我らを御父に運び給ふこと、而して「永久のいのち」を賜ふこと、こ
れ「いのちの変貌三」なり。「いのちの変貌一」を「いのちの変貌三」に媒介するもの、御友神学(御友の神学び)/御友道なり、即ち「いのちの変貌二」なり。有名な
カール・バルトの「御子の従順:der Gehorsam des Sohnes Gottes」を基軸とせる「和解論」、この受肉の媒介性を十分窮めるに至らざ
る点、我惜しむなり。それ故に、これ、恩師が「イエスの束縛」を感じて「インマヌエルの原事実」で以て反撃せるも、道理なり。然れども、彼の言ふ「インマヌエル
の原事実」、右に論ぜし如く、「インマヌエル(pros ton theon)の原受肉」を孕みたる事理明らかにせざる点、不十分なり。ただに偶有
的(kontingent)にして、目的的(purposeful)にして終末論的(eschatological)なる有意義性を欠損したる点、修正すべきな
り。修正は、受肉(いのちの変貌二)の、原受肉(いのちの変貌一)と復活永生(いのちの変貌三)との絆を闡明する点に於いて、関係的なり。単に受肉論内にて成しお
おせることに非ず。このこと、バルトの「和解論」に依拠する既成神学の大改革を意味するなり)

 三 その注入なき大地なぞ想像をなすも難しやあるまじき事

   (備考:従ひて、我何度も言ふ如く、芭蕉の俳諧、ことに、よく見れば薺花咲く垣根かな、の一句を理解為すこと、肝要なり。私見によれば、「よく見れば」と
は、「原受肉をよく窮むれば」との事なり)

 四 イマヌエル原受肉のやありてこそ御許戻る日我が大車(おおぐるま)

   (備考:これ、我が大乗基督教の秘儀なり)

 五 これを我いのち変貌三と呼ぶ御友神学御許運びて

 六 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す

   (備考:復唱。この歌に我妻の笑み増しに教へられし真理盛りたり、嬉し嬉しや)

 七 原受肉秘義深々と父に聴き「友よ」と告ぐる御友尊し

 八 これを我いのち変貌二とぞ呼ぶ一と三をぞ結ぶ絆よ

 九 バルトがや「御子従順」と呼びしもの絆なす事げにも尊し

 十 御友はや「原栄(もとさかえ)をぞ華やがせ」御父に祈り甦ります

   (備考:『ヨハネ』17・5、熟読参照)

 十一 その時にゃ原栄(もとさかえ)はや華やぎて御子我ら「共」甦らさる

 十二 原栄(もとさかえ)華やぐ時の様をぞやホ氏や描くや冒険哲学

   (備考:ホ氏の冒険哲学以下の如くなり:”In this Supreme Adventure, the Reality which the
Adventure transmutes into its Unity of Appearance, requires the real
occasions of the advancing world each claiming its due share of attention.”
[AI, 295])

 十三 いのちがや変貌三相ありてこそ成り立つ妙味次著で窮めん

   (備考:『いのちの変貌と御友神学――ドストエフスキー、ホワイトヘッド形而上学、良寛、わが短歌神学日記U』なり。これ第一部『良寛「風の歌」にちなん
で御友神学省察、第二部『平安ありて平和なる――ホワイトヘッドの平和論、西田哲学、わが短歌神学日記』、に続く第三部なり』

 十四 いのちをぞ今生だけと見ればこそ核時代のぞ狭隘発す

   (備考:北は、米にまで届くICBMを計画中にして、米はそれに危機を感じ取るといふのが、現今の地球的危機意識の中心なるも、これ、核時代の狭隘に他な
らず。「原受肉」に学ばず、「永久のいのち」にも届かず、そもそも思考が狭隘なり。核投下の結果、多大の人命を損傷せりとするも、未来永劫「後悔」を来世にて背
負うだけなり。その点を、米国大統領として思ふ時、オバマ氏の広島平和スピーチと森重昭氏抱擁の道しか「平安ありて平和なる」道は見えざりしなり。それを尊
重し、受け継ぐべきなり――米国の後継者も全世界も!)

 十五 いのちがや変貌三相妙味のや煌く冒険織りなすを見よ

 十六 切れ目なき我妻の笑み告ぐるこそ生死一体いのち祝福

   (備考:復唱)

 十七 祝福ぞ平安ありて平和なるいのち変貌三相の歌

 十八 今のこの核時代のや狂騒やいのち固定の狭隘の果て



〇(20日)一に懸かりてこそやの歌十四首



 一 恩師がや原事実にぞ向かふとぞ書きし処で我御友逢ふ

   (備考:恩師滝沢の「純粋神人学の基本モチーフ」は以下の文言に詠はるるなり:「それに対して、純粋な神人学は偶然的な。一回的に与えられたナザレのイエ
スもしくは聖書という形態に助けられ導かれはするが、しかし束縛されはしない。むしろ、生ける道標としてのこの形態に導かれて、もっぱら道、真理、太初のロゴス
に向かうのであり、バルトと共にいうならイン目ヌエルの原事実に、永遠に新たな、絶対的に不可分・不可同・不可逆な神と人間の関係に向かうのである。したがっ
て、神人学はその本来の内容として特殊的・史的な形態を内に持つことはできないし、ゆるされないし、また持とうとはしない。それは神人学が通俗の意味で「抽象的普
遍的」に思弁するからなのではない。全く逆である。神人学があの絶対的に偶有的な、ただ生ける神ご自身によって神ご自身の自由な表現点として規定された人間存
在に、かたく結びついているからなのであって、この規定された人間存在を離れては、いかなる特殊的、具体的にして史的な形態も、この世界には現実として存在できな
いのである。」滝沢克己『純粋神人学序説――物と人と』(福岡・創言社、1988年)、272頁)

 二 恩師はやイエスの縛り嫌ふやも御友父より原受肉聴く

   (備考:『ヨハネ』15・15、熟読参照)

 三 聴きつ主は「友よ」と我ら呼び給ふおよそ縛りの無き御友げに

 四 滝沢や御友御姿なくてぞや原事実上人イエスしか見ず

 五 これやしも「インマヌエルの原事実」設立非ずそれへの応答

   (備考:以下の文言滝沢「純粋神人学」を理解する上にて不可欠なり:「カール・バルト自身はしかし、かつてパウロの助けを通して自分自身の足下で「発
見」した、インマヌエルの原事実、原関係にかたくとどまっている。この原事実にうながさてれて、西洋の神学の流れに抗して、然り、彼が生まれ育った西洋の伝統に徹
底的に忠実であろうとした彼自身の意識を越えて、彼は一歩一歩、歴史的に出現した形態そのものに束縛されるというところから、自由になった。そしてついに、人間イ
エスのこの地上への登場によって、はじめてインマヌエルの原事実が出来事となったのではなく、逆に、はじめから終りまで、常に新しく現在するインマヌエルの原事
実を基盤にして、人間イエスがこの地上に現れたということに、彼ははっきり気づき、そして明確に語ったのである。ナザレのイエスの出現と共に決定的に起こっている
ことは、インマヌエルの原事実(原関係)そのものの設立ではなくて、唯一のインマヌエルの原事実の呼びかけに対する完全な、しかし徹頭徹尾人間的な答えである。こ
の原事実ははじめにかつ永遠に、真の、絶対的に形無き神ご自身によってかたく創られたのである。」(270-271頁)注意すべきは、ここでは、「インマヌエル
の原事実」(太初のロゴス)に内在する「インマヌエルの原受肉」が発見され無きまま、前提され、それへの人間イエスの徹頭徹尾人間的な応答が力説さるるなり。もし
も、我が力説為す如く、原事実原受肉孕めるとするならば、これを父から聴きつつ「友よ」と呼びかくるが「御友」ならば、この御方は単に徹頭徹尾人でだけ在るにあら
ず。人死するならば御父に御運びなす御方なるなり。要するに、滝沢の記述には、我の言ふ「いのち変貌の二」が、その一と三との媒介関係者であるままに捉えらるるこ
となしなり。一語で以てするならば、主イエス「救済者」ならず、なり)

 六 これ一に懸かりてこそや原受肉原事実中見るや否やぞ

 七 もし見るや「神共ロゴス」(pros ton theon)「太初」にぞ内在神秘人イエス超ゆ

 八 汝が笑みや生涯の際溢れてや絶後いや増す御友いませば

   (備考:復唱

 九 切れ目なき我妻の笑み告ぐるこそ生死一体いのち祝福

   (備考:復唱)

 十 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す

   (備考:復唱。右三首のいずれも、滝沢の言ふ如き「徹頭徹尾人間的なる応答」超ゆるもの示すなり。一語で以て指示すなら、共なる救済者復活者、御友なり)

 十一 滝沢や原事実中原受肉見ざるゆえにや答ふ友無し

 十二 御友はやいのち変貌一に聴き三に繋ぐやいのち絆よ

 十三 原事実それだけならば概念よ中に神共いましてや活

 十四 我やしも「原受肉」思ふたび心震へむ神共地共

   (備考:『ヨハネ』1・1・第二項「ロゴス神共なりき」(pros ton theon)第一項「太初のロゴス」に内三位一体的いのち変貌的に倶現なすと
き、インマヌエルの原義全被造界に「共」《with》と成れり。これ、いのち変貌の一なり。それ承けて、御友活躍「ともあらはれ」《its Unity of
Appearance》へと!これいのち変貌二→三ぞ!嬉し嬉しや!!)



〇(21日)いのち一と二と三の歌十六首



 一 ここまでや諸著綴り来て我やしも有難き事なるやと謝すや

 二 我の言ふ御友神学即ちやいのち変貌一承けて活

 三 而してやいのち変貌一とはや原受肉そも原事実中

 四 西田言ふ「内在的の超越」や正にこれなり神共地共

 五 イマヌエルその原義はや神共やその在所ぞや地共ほかなし

 六 神共や地共の底ぞ地共がや地の底ならば底の底なり

 七 底の底其処まで愛の自己無化やありてこそなり変貌一ぞ

   (備考:『ヨハネ』1・1・第二項「ロゴス神と共なりき」(pros ton theon)

に対応為すや、『ピリピ』2・6「簒奪撥無=愛の自己無化」(oux harpagmon)なり。これ所謂「ケノーシス」(『ピリピ』2・7)の一歩手前なり)

 八 我妻や絶後笑み増し不思議やも深き低みの底ぞ飛翔す

   (備考:復唱)

 九 かくてこそ底の底のや飛翔すや御友承けてや御父御許に

 十 これ正にいのち変貌一を承け御友変貌二ぞまかり出づ

 十一 一と二ぞ三で合作とわいのち思ひ出容れつ父未来成す

 十二 切れ目なき我妻の笑み告ぐるこそ生死一体いのち祝福

   (備考:復唱)

 十三 いのちのぞ祝福何や尋ぬれば一体御友嬉し嬉しや

 十四 滝沢の原事実はやいのち一内在地共誠これなり

 十五 これありて御友父より聴き給ひ「友よ」と告ぐや福音の秋

 十六 恩師のや「徹頭徹尾人イエス」応答なすに福音聴かず

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Modified by isso