桃李歌壇 主宰の部屋

T.S.エリオットについて

その4 エリオットと仏教的なるもの

  エリオットはハーバード大学の哲学科大学院(博士課程)で学んでいたときに、インド・仏教思想に触れて、サンスクリット語を学んでいたということを前に言いました。一体どんなことを学んだのか、その記録が残っています。

 彼はまず、1911年と1912年にサンスクリット基礎演習を継続して受講しています。テキストはランマン著の「アンスクリット教本」で、その内容は、たんなる語学の修得にとどまらずサンスクリット文学の紹介もしています。エリオットの後年の詩、「ドライ・サルベージズ」(1941)には、バガボット・ギターの説教者であるクリシュナが登場しますが、それはこのときのインド叙事詩の読書の影響です。

 1912年と1913年は継続して、「パタンジャリのヨーガ哲学」(インド哲学の一派で、内容は仏教の唯識派にちかい)「上座部仏教聖典」を受講している。これらは、「荒地」のなかの(仏陀の)「火の説法 The Fire Sermon」に生かされています。エリオットが読んだテキストには

「すべては燃えている、眼は燃えている、色彩は燃えている....何によって燃えているのか、迷いの火によって燃えている」

とあります。日本語で云う「三界は火宅」というイメージ。

 さらに注目すべきは、1913年に、日本の仏教学者の姉崎正治の特別講義
「日本における仏教各派の宗教哲学思想」を受講しています。
(エリオットのノートが残っている)

 つまり、彼のインド・仏教思想にたいする傾倒ぶりは相当なものであったと云ってよいでしょう。

 この出会いからエリオットは何を身につけたのか。わたしの見るところでは、次のようなエリオットの言葉に注目すべきだと思いますね。

  「インドの哲学者達の精妙さは、ヨーロッパの偉大な哲学者がほとんど子供じみて見えるほどの ものであるが、それを理解しようとする私の努力の大半は、ギリシャ以来のヨーロッパの哲学に共通するすべてのカテゴリーや区別を消去するところにあった。ヨーロッパの哲学の修得によって得た知識などほとんど障害以上の何ものでもなかった....ショーペンハウエル、ハルトマン、ドーソンのようなヨーロッパ人のうちにある「ブラフマンや仏教思想の影響」などというものは、おおむね、ロマン派的誤解であり、神秘なるものを洞察したいという私の唯一の希望を実現するためには、私は、アメリカ人ないしヨーロッパ人として考え感じることを忘れねばならない、という思いであった。しかし、これは、心情的にも実際的にも望むべくもなかった。」("After Strange Gods" 1934 pp.40-41 より訳しました)

 これは、やはり、「荒地」の最後の部分を読解する上で重要な文だと思います。
荒地そのものは、宗教ではなく文学なので、安直な救済ではなく、人間の苦しみ、廃墟を前にした虚無の現実を、アイロニカルに歌わねばならないが、そうはいっても、作者自身は、仏教的なるものによる救済を、一時的にせよ、本気で考えていたと思います。

 しかし、彼は、アメリカ人であり、ヨーロッパ人であることをやめることは出来ないが故に、仏教ではなくて、英国カトリック教会に改宗する事を選択しました。
しかし、キリスト教の中にも、深い意味で仏教的なものがあります。いや、なまじ
西欧の伝統を忘れなかったお陰で、エリオットが見いだした仏教的なるものは
形を変えて、より普遍的な精神として甦る可能性を秘めていたとさえ思われます。

 そして、彼の詩だけでなく詩論のなかに、私は仏教的なるものの反響を聞き取ることが出きると考えています。とくに、彼の浪漫主義批判、「個性の自己主張」ではなく「個性の滅却(impersonality)」を説くその詩論などは、そこまで立ち入って考えるべきでしょう。