桃李歌壇 主宰の部屋

T.S.エリオットについて

その6 俳諧の民衆性と個人性

> かつて、吉岡実が「詩は特定の人のものだ。」と言いました。
> 今、若手の町田康は「もっとハードに結晶してゆくかたちで、詩を書く人が
> もっと少なくなっても、それはそれでいいのではないか。」と言っている。
> 詩は多くの人のものなのか否か、その疑問がずっと私のなかにあります。
> 一応私は書き手なのですが、書き手としての迷いがいつもそこにあります。
                  

これは大きな問題ですね。

(1)「詩は特定の人のものだ」(「聞く耳あるものは聞くべし」、ないし「豚に真珠を投げるな」)
(2)「詩は万人に開かれていなければならない」

話をあまり一般化せずに、芭蕉とエリオットのケースに焦点をあててお話しします。(今日は、芭蕉の話だけですが)

蕉風の俳諧の始まりが、尾張の連衆と共に巻いた五歌仙「冬の日」にあると云うことを前回お話ししました。

俳諧の連歌(現在では「連句」といいますが、これは明治時代に俳諧の「発句」を「俳句」と呼ぶようになってから以後の用法で、本来、「俳諧」は「俳諧の連歌」の省略形です)というのは、それに参加した連衆のレベルによって出来不出来がきまってしまいます。とくに、従来の俳諧の革新をめざしていた芭蕉にとって、新しい「付合」がどんなものであるかを理解している連衆を選ぶことが重要でした。その意味で、

「蕉風俳諧」は、少数の選ばれた詩人の間で巻かれた「前衛的」藝術です。

まず、中国や日本の伝統的な詩の世界によく通じていなければならない−連衆の間で伝承されたテキストの共有がないと俳諧は巻きにくくなります。
「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」とは藤原俊成の言葉ですが、新古今集の美的宇宙はそれまでの和歌と物語のテキストが共有されてはじめて成立します。
漢詩・和歌・連歌の高雅な世界を俗語の文脈に甦らせ、それを越えることを目指した。蕉風俳諧でも、源氏物語は「面影付け」の基本テキストの一つとして、確かに共有されていました。(エリオットにとっての「神聖喜劇」のような役割ですね)
そのほかに、李白・杜甫・白楽天といった漢詩の世界、禅宗の寺院で身につけた仏典の世界もともと神社に奉納されることのおおかった連歌のもつ神祇的な性格、こういう様々な伝統的要素を、「民衆の言葉の中で」生かすというのが蕉風俳諧の特徴です。

ところで、五歌仙のみを含む「冬の日」の次に出版された「春の日」「あら野」になると、歌仙だけでなく、発句集が付属します。とくに、「あら野」は七三五句の発句を(作者百七十人)収録し、一部のエリートだけではなく、大勢の人に開かれた句集という体裁をとっています。

俳諧の発句は、文脈なしに理解できる句、とくに嘱目の四季の風物を詠む「挨拶句」のわけですから、伝承されたテキストに依拠する必要がないという点に於いて、「連句」よりは分かりやすい。

本来、発句というのは格調のある物でなければならないのですが、「あら野」には、プロの俳人以外の素人の発句とおぼしきものも沢山はいっています。つまり玉石混淆。(これは、たぶん、出版費用を捻出するために、大勢の人に出句して貰ったせいでしょう)

明治以後に、発句が独立して「俳句」となり、文学的教養が無くとも、日本の自然と風土のもとで生活している詩心のある人ならば誰でも享受できる「民衆詩」となりますがその素地が、このあたりに、すでにあったとも言えます。

つまり蕉風俳諧というのは、本来、前衛的な藝術であったのですが、のちに民衆的な藝術として大勢の人に愛好されるようになる要素を含んでいたのです。

それでは、藝術の持つ互いに背反するような二面性、「前衛性」と「民衆性」は、芭蕉においてはどのように統合されていたのか。このへんが非常に興味あるところですね。

これと関連して、もうひとつの問題を考えてみたいところ。

(1)詩は、他の誰のためでもない、<この私>のためにある  
(2)詩は、他者との交わりのなかで生まれる 
        
という二面性です。

いうなれば「孤心」と「連衆心」という矛盾対立の統合がいかにして実現されたか、
という問題で、蕉風俳諧の成立の根柢に関わっています。