今日は、「個性の滅却」という言葉が出てくるエリオットの詩論、 「伝統と個人の才能」についてお話しします。 この論文は、「聖なる森」という評論集(1920)に入っているのですが、 これは古代インドのヴェーダの奥義を伝える「森林の書」(アーラニヤカ) にちなんで付けたもの。 「荒地」が出版される前は、エリオットは批評家としてデビューしたわけですが 文藝評論集という性格上、背景にある「形而上学と神秘主義」は、暗示されるにとどまっています。これより以前というと、エリオットは哲学論文の方を書いていて、それは英国の形而上学者フランシス・ブラドレーに関する研究です。 (余談になりますが、ブラドレーの哲学のテーマは、主客未分の「今此処における直接経験、純粋な感情(feeling)」からはじめて、絶対者(Absolute)に至るという点で、ほぼ同時代の日本の哲学者、西田幾多郎の「善の研究」と類似しているところがありますが、このことは、あまり知られていません) エリオットの評論では、「個性滅却の詩論」が有名ですが、それは「荒地」に先立つこの評論集に出てきます。 (「荒地」出版の前はエリオットは批評家として知られていた) 「詩は情緒の解放ではなくて情緒からの脱却であり、個性の表現ではなく個性からの脱却である。 当然のことであるが、個性と情緒を持っている人だけが、個性と情緒から脱却するとはどういう意味か分かるだろう」 (「伝統と個人の才能」岩波文庫に翻訳あり) ただし、このような文章をどのように理解すべきか、は容易ではないですね。 エリオット自身、これを書いたのはまだ若い頃であって、十分に文意を尽くしていないところもある。たとえば、彼は、詩人の役割を科学者になぞらえて 「藝術が科學の状態に近づくということは、この個性滅却の過程でいわれるのだ。そこで、私は細くひきのばした白金の一片を酸素と無水亜硫酸のはいった容器にいれるときに起きる反応を考えて貰いたい。この類推によって示唆が得られるだろう」(岩波文庫13頁) などと、やや見当はずれなことも云っています。 私に云わせるならば、藝術の「個性滅却」というのは、藝術が科學の状態に近づくということでは全くありません。科學は最初から科学者の個性とは関係がないという意味で、「没個性」的です。科學では、「感受の主体」は問題にならないが、藝術作品では、まさしく、作者や鑑賞者の「主体性」が問題となるのです。客体の持つ「類的普遍性」ではなく、客体的な類種の違いを越えた「主体的な普遍性」こそが、藝術作品の持ちうる普遍性です。単なる好悪の表明ではなく普遍性を目指す藝術作品の批評といえども科学者がやるように第三者(傍観者)として藝術作品に関わることはありえません。 それでは、「個性滅却」の詩論が意味するところは何であるのか。おそらく、それは次のような文に真意を求めるべきでしょう。 「芸術家の進歩というのは絶えず自己を犠牲にしていくこと、絶えず自己を滅却していくことにある」 つまり、「非個性的である」、ないし「没個性的である」という静的な状態ではなく、 自己を犠牲にしていくこと、個性を滅却していくこと、その動的なプロセスが問題なのです。 「個性滅却」はたしか岩波文庫の翻訳者が使っていたのですが、ほかにもっと良い訳語は、とおもっても「没個性」とか「非個性」とか、静的かつ消極的なニュアンスの訳語ばかりで、Impersonality に含意されるなんというかもっとダイナミックかつ積極的なニュアンスが表現されませんね。 Impersonality の詩論というのは、より内容に即して考えるならば、「人格とか個人とかいうものは、経験に先立つ実体ではない」という立場から為される詩論です。 浪漫主義の批判という狭い文学史上の文脈を離れて、エリオットが書いた哲学の博士論文のテーマに戻って考えてみると、「個人よりも経験が先行する」ということ−これがポイントです。 個性は経験することによって形成される、だから、そこでつくられた個性は、つねにそれを越えるものに接することによって自己を越えていくものだ、という意味が出ないといけない。 ブラドレーの哲学というのは、直接経験からスタートするのですが、そこでいう直接経験というのは経験する主体がまず先に(実体として)存在して、それが外界をじかに経験するという意味ではなく通常、我々が、人格なり個性を持った個体として考えているものが、そこにおいては解体されるようなレベル(主客未分の経験)を意味します。だからこの経験を表すのにブラドレーは、感情(feeling)という言葉を使った。 エリオットの博士論文、「F.H.ブラドレーの哲学に於ける認識と経験」は、この 彼の地に達するためには |