桃李歌壇 主宰の部屋

フィロソフィア・ヤポニカを読む

「フィロソフィア・ヤポニカ」(中沢新一著、集英社)の第一章「微分的練習曲」からはじめよう。さて、ここで「微分」とは何か、についてどうしても触れないわけにいかない。それも、学校数学の教科書的な紹介ではなく、この概念の創始者の一人であったライプニッツの精神からはじめる。そして彼の影響を受けつつもニュートンの物理学を受けて近代的な自然観の認識論を確立したカントの第一批判、とくに「内包量」と「外延量」の区別、さらにはユダヤ教の思想家であると同時に優れたカント学者であったヘルマン・コーヘンの哲学的な「微分」思想に言及する。そして、田邊元よりも後の思想家であり、田邊とは独立に「同一性」の哲学を批判し「差異性」の哲学を唱え、その見地から「無限小の差異性=微分 differential」を論じたフランスの現代哲学者ジル・ドゥルーズの微分思想にまで及ぶ――こういったものが第一章の背景にあると云って良い。

これは、広い意味での「科學の哲学」と言って良いが、これについては議論が専門的になり過ぎるし、また中沢自身があまりこの方面に詳しいとも思えず、数学的知識の不充分さ故の初等的なあやまりもいくつか見受けられたので、ここでは論じたくない。(数学的知識の不備という点については、ドゥールーズだって似たようなものだ)そういう細部の不備は、僕にとっては二次的なものであって、中沢の本の魅力は、そういう科学哲学プロパーの部分にはないのだ。

この本の魅力は、では何処にあるのか。
たとえば、中沢は次のように言う。

「ひとつの思考の主題をめぐって、いくつもの強力な主題群がめまぐるしい勢いでつぎつぎと出現してくる。はじめのうちは、それらはバラバラのものに聞こえているのだけれど、しばらくすると、それが彼の思考の中で、互いに分離不可能なほどの秩序をもって連合されていくのだ。たがいに異質な由来を持っている変奏群が、ひとまとめに彼の思想のなかで統一されてしまうのではなく、異質なもの同士が稠密な近傍のゾーンで接触し、互いを接続していくようなやりかたで、繋がっていく。そして、その動きの中から、ひとつの概念が「独創思想でござんす」といいながら、生み出されてくる。これが田邊元の哲学的思考であり、田邊元のスタイルなのだ。レヴィ=ストロースは神話と音楽が、人間の思考の発現として、深い共通の本質を持っていることを語っているが、私達は、そこに田邊元における哲学的思考というものを付け加えたい気持ちにかられる。実際、西田幾多郎の哲学的思考が宗教の思考に近いのに対して、田邊元のそれは野性的な神話的思考のほうに接近した特質を持っている。」(10頁)

これは、第一章のなかで僕が一番面白いと思った文章だ。田邊を読む視点を実に明快に打ち出しているが、それは同時に、中沢自身がもっとも共鳴している田邊哲学の一側面でもある。巨視的かつ上空飛翔的な思弁を避けること、、微視的なものに潜む無限の多様性を、外部へと拡散し、遠心的に拡がっていく運動=外延量の世界にではなく、瞬間の中に凝縮された内面性(強度=intensity)に孕みつつ、あくまでも微視的・局所的な低空飛行を続けつつ「地上すれすれに飛ぶ」神話的思索――これこそが中沢が心から共鳴し、半世紀以上も前の田邊の思索を、現在の場で反復しようとしている理由なのだろう。

第二章 「ある種の社会主義」で、中沢は、ナチスドイツによって迫害され、孤立していたヤスパースに田邊が手をさしのべたというエピソードから話をはじめている。これは田邊のみならず一般に「京都学派」を、第二次大戦の超国家主義のイデオロギーという文脈でしか見ない思想史家の狭隘さから、読者を解放するだろう。

ナチスの党員となり、ドイツ民族の「血」と大地性のイデオロギーに体質的に共感したハイデッガーのケースと田邊のケースを同一視するわけには行かない。

しかし、英国の無神論的自由思想家バートランド・ラッセルがやったように、個人主義ないし自由主義の立場から全体主義を「悪」として糾弾すること、あるいは、神学者カール・バルトがおこなったようにキリスト教(世界宗教)という類的普遍、一切の自然宗教を偶像崇拝として遮断する神学=超越神論の立場からナチス・ドイツに対して徹底した「否」を突きつけること、これらは田邊の選択した路線ではなかった。

田邊は、彼の生きた時代の日本の現実−天皇制を根底に持つ民族共同体と国家資本主義−という場から飛翔せずに、その大地に密着して思索しようとした。そして、個でも類でもない立場、個と類との中間にあって両者を媒介する「種」的な存在−言語や習俗を共有する民族や共同体−の解明を志し、「種の論理」というものを展開したのである。彼の天皇制イデオロギーにたいする関係はきわめて両義的であり、その議論はこれまで十分に理解されたとは言い難い。

中沢の議論は、第二章「ある種の社会主義」、第三章「構造主義と種の論理」、第4章「多様体哲学としての種の論理」、第5章「個体と国家」が、すべて田邊のいう「種の論理」の解明にあてられている。それは、第二次世界大戦時の「過去の」思索ではなく、「来るべき哲学」として位置づけられている。

なぜ、「種の論理」が来るべき哲学なのか。

中沢の着眼点は、フランスの現代哲学、それもレヴィ=ストロースの構造主義の立場に立つ「野生の思考」の解明、ドゥルーズの「多様体の哲学」に現れるポスト構造主義の思索を田邊の議論に重ね合わせることである。田邊の議論は、これらのフランス現代思想をなんと良く先取りしていた先駆的思索であったことか、そのことを、これまで日本の哲学者達は、どうして気付かずにいたのか――こういう声が、中沢の文章の背後から聞こえてくる。そしてこの点が、「フィロソフィア・ヤポニカ」という、日本の哲学的アカデミズムの外部で書かれた著作の独自性なのである。 

第三章「構造主義と種の論理」が、フランス現代思想と田邊の先駆的思索の接点をテーマとしている。「種」とは、「社会をつくりあげる無意識の構造」ないし、「社会的共同体の奥底で作動しながら、個人の幻想や自由に拘束を加える」基体として、さしあたって規定される。個体性がうまれてくる基体であると同時に、その個体性を否定する原理をもはらむ無意識の構造には、完全な合理化を阻むような独特の論理性ないし「前論理性」がある――それを解明するのが「種の論理」に他ならない。

田邊は、レヴィ=ストロースやドゥルーズよりも前の思想家であるから、当然構造主義やポスト構造主義の用語は使っていない。しかし、デュルケームやレヴィ=ブリュールのようなフランス社会哲学の思想家はよく読んでおり、そこから彼の「社会存在の論理」の構築にむかったのであるから、フランス現代思想との並行関係はけっして偶然事ではない。

デュルケームはその宗教社会学で「聖なるもの」を分析し、自然と一つになったトーテミズムで特徴付けられる未開社会の人々の宗教的感性にメスを入れたが、それをレヴィ=ブリュールは、人々と自然物の間に、そして同時に人々相互の間に社会的絆を形成する「分有(participation)」の論理として展開した。この論理、いやより正確には「前論理」とも云うべきものが田邊の「種の論理」の出発点である。

それでは、分有に基づくの前論理的思考とは何か。田邊によれば、それは未開社会の神話的思考にすぎぬものではない。それともそれは文明化された社会の底流にあっても、個々人の意識の底に潜み、より洗練された宗教的祭儀や藝術作品の創作や享受においても決定的な役割を果たすものであり、人間の生に対してアクチャルな関わりを持つ。言い換えれば、未開社会の思惟を忌避するのではなく、それに習熟することによって、文明の意味を問いなおすことが求められている。

中沢がこういう田辺の思索の先駆性を評価したのは基本的に正しいと思う。しかし、重要なのは、構造主義やポスト構造主義の議論を単に先取りしたということではなく、田邊の議論には、そういうフランスの「現代」思想を越える射程もあることを示すことである。そして、それを中沢自身が、みずから改めて実践してみせねばならない。レヴィ=ストロースもドゥルーズも、或る意味で過去の思想家である−彼らにしたところで、いずれは20世紀末の思想のひとつとして要約されるにすぎないだろうから。

中沢は、第三章のおわりで、実際に、このような実験的な思索を試みようとしている。(78−88頁)そこでは、中央オーストラリアのアランダ族に伝わる神話が紹介され、もし田邊が現在甦って、これを聞いたらどのように云うだろうか、という「田邊元の思考のシュミレーション」をやっている。ただし、中沢の議論は、もともと雑誌論文の連載であったという制約のためか、やや尻切れ蜻蛉の感があり、そこで本来批判されるべきレヴィ=ストロースの構造主義的思考に肉薄しているとは言い難いのが惜しまれる。

 概念の展開と純粋経験の自発自展

一般に、唯物論的な世界観を(無意識のうちにせよ)抱いている人にとっては、言葉に先立って自然があり物質の運動がある、という了解が支配的なのではないか。観念や概念が「動く」といっても、それは派生的ないし比喩的な意味でそういわれるのだと考えるだろう。

ところが、ヘーゲルの場合は、感覚的経験によって知られる「自然界」よりも、「観念界」のほうが事柄に於いて先行する。 そして、西洋の哲学においては、これは長い伝統を持つ考え方である。「自然界」は有限なる対象的事物の世界にすぎないが、「観念界」は、無限なる奥行きを持つ「精神」の故郷である。我々の言葉は、本来は、この観念に関わるもの。それゆえ「言葉を欠いた感覚的経験」などは「もっとも貧しい経験」であり、それは言葉の世界に於いて、本来持っていた観念の豊かさを回復すべきものと捉えられる。したがって、生成消滅や場所的移動のような自然現象としての「運動」よりも、相対立する概念を通して止揚される「概念の運動」のほうが根源的な重要性を持つ。弁証法とは、もともと、対話問答(ディアレクティケー)による探求という意味であったから。

ヘーゲルの「絶対的観念論」とは、概念(ベグライフェン=これは有限なる感性的経験から無限なる観念へと立ち返ることによって物事を全体的に把握する働き)の運動=自発自展をあとづけるという構成をもっている。

このヘーゲル的な「概念」の「自発自展」を、「純粋経験の自発自展」によって捉えなおしたのが、西田幾多郎の「純粋経験」である。純粋経験とは、譬えて云えば、あらゆる色彩がそこから分離してくるがそれ自身は色を持たない無色の光のようなもの。

我々が経験するすべての豊かさは、感覚的な物も観念的な物もふくめて、純粋経験の中に潜在している。それを「開き出す」ことによって、藝術も宗教も科學も成立する、というのが西田哲学の出発点である。観念を先行させるヘーゲルの道でもなく、かといって物質なるものを独断的に先行させる唯物論者の道でもなく、我々自身にも世界にも先立つ「純粋経験」から出発し、そこから藝術や宗教や科學を語るという道である。西田の純粋経験論は、数学から哲学に転じた田邊にも大きな影響を与えた考え方である。

西田や田邊が「無」によって何をいわんとしていたかを把捉するのは難しい問題だが、その出発点であった純粋経験論に立ち戻るのが良いと思う。

第4章 「多様体哲学」としての種の論理では、中沢は、「多様体」という数学的な概念を援用して田辺の言う種の論理を説明しようとしている。彼が手引きとしているのは、差異と反復と多様体を三位一体的にキーワードとして用いたドゥ・ルーズの思索である。

ここでは、第一章で見られたように、「リーマン多様体」、「葉相のトポロジー」などの数学用語が頻出するが、これもまたドゥルーズ・ガタリらの著作とよく似ている。

私は、この部分については、率直に言ってあまり評価できないと云わなければならない。

それらは、もとの数学に於ける文脈とは切り離された比喩的な用法にすぎないにもかかわらず、あたかも現代数学の最前線でそのまま通用するような議論であるかのように語られているからである。

ドゥルーズやガタリの著作が、ソーカルやブリクモンといった専門の科学者によって、科学用語の生半可な理解にもとづくペダンティックな用語法の悪しき事例としてやり玉に挙げられているのも、決して理由のないことではない。たとえば、中沢が依拠しているドゥ・ルーズの数学的多様体に関する議論(107頁)などは、数学科でまともにリーマン幾何学を学んだものならば殆どのものが首を傾げるような類のものである。彼らが情熱を持って専門科学の用語をジャーナリスティックに乱用するとき、その議論は、科學にかんする安直な理解に起因する初等的な過ちに満ちており、他の部分に於ける彼らの洞察に満ちた議論の信憑性を大いに損なうものであるから、全面的に書き換える必要があるだろう。私は「多様体」とか「葉相構造」などという専門の数学用語を使わぬことをむしろ提案したいくらいである。

しかし、こういうふうに著者やフランスの一部の思想家の科学上の無知をあげつらうことは私の本意ではない。そういうことはあまり楽しい作業でないし、彼らの著作の持つ長所から読者を遠ざけてしまう結果となるだろう。

そこで、私は、科學とではなく、詩と宗教のような人間の実存の問題と密着した領域に於いて、「フィロソフィア・ヤポニカ」を論じることとしたい。(これは、別に科学哲学なるものを軽んじているからではない。適切に語られるならば、田邊元の著作がそうであるように、科学哲学はきわめて今日的な課題に答えるものであろう)

ドゥルーズについて 

田邊とドゥルーズの関心領域の共通性については、私も中沢と同じく前から感じていた。ともに、アカデミズムの専門領域には収まらない「バロック的思想家」であるという印象がある。

ドゥルーズはヒュームやベルクソンを独自な仕方で読むところから哲学的経歴をはじめた。ドイツ観念論や現象学、ないし実存主義とは違ったアプローチが、そこにある。実体的な主体を前提しないラジカルな経験論、むしろ経験することそのことが、経験の中で主体を目指すという考え方を取った点で、西田のいう純粋経験論などと通底するところがある。

 構造主義がかつての実存主義で強調された個の主体性を解体して、「種」的な社会存在のもつ構造の重要性を強調したのにたいして、ポスト構造主義といわれる立場(そういうものが、もしあるとすればの話ですが)は、個の持つ主体性の起源、その特異性を回復しなければならない。

生の存在学と死の弁証法

この問題がまさに、西田が発見し田邊が継承した問題の核心に触れていることは、田邊の晩年の論文(ハイデッガーの古稀記念論文集に寄稿したもの)「生の存在学か死の弁証法か」(全集13巻)のなかで明確に述べられている。

存在学(ontology)というのは、希臘以来の伝統を持つものだが、ありとあれゆるものについて、それらが「何であるのか」(本質)、それらは「現実に存在するか」(実存)と問いつつ、存在することの意味を尋ねます。第一義的に「存在するもの」は何であるのか、それは「個物」なのか、それとも類や種のような「普遍」なのか、という問いは、存在学のなかで問われる。「種」の論理というのも、或る意味では、生物学や人類学の中での問いとしても立てられる。実際に、これらの「科學」では「種」が研究対象であり、「個」は種の事例標本、サンプルとしての意味しかない。実際に観察するものは常に「個」であっても我々の関心を惹くのは「個」の個性ではなく、「個」に現れた「種」の「同一性」ないし「共通性」であり、他の種との「差異性」なのである。

しかし、科学者がこういう「対象化された」存在事物の探求ではなしに、探求する「自己自身の存在」に向かうとき、「個」の問題があらわになって来る。

一体、世界の中にある様々な事物の存在を問う「私自身」は、どんなあり方をしているのか。

ヨーロッパにおける近代哲学は、このような問いをめぐって展開する。デカルトは、まさにそういう「私自身の存在」から哲学を開始した。彼の場合は、科學の客観性、普遍性といえども、究極の所では「私は....と考える」という個の主体性によってはじめて裏付けられる。
(余談になるが、私が米国であったある数学者は、「数学といえども私にとっては主観的(主体的)なものでしかない」といっていた)

このように、客観性を標榜する近代哲学−そこから近代科學が生まれます−に於いても、その営みは、究極の所、「個の主体性」に基礎を置いていたといってよい。

それでは、デカルトのような「個的主体」は、自己自身の「死」については、どのように把捉していたのか?

彼の場合は、「自己の死」というものはあり得ない。なぜなら、人間の精神は「不死」であり、肉体が解体されても、それは永遠に存続するというキリスト教的信仰を堅持するだけでなく、彼は「省察」のなかでそれを哲学的に論証しようとさえしているのだから。

死というものは人間の精神にとっては本来存在しない−それゆえに死への恐怖は精神と身体の区別を認識できぬ無知に基づく迷信である、これがデカルト的な死生観。

デカルトを遠い父祖とする近代科学は、デカルトを支えていたキリスト教的な死生観などはとうの昔に忘却しているにもかかわらず、デカルトと同じように、あるいはデカルトよりももっと皮相なやりかたで、「この私の死」というものを忌避しているように見える。なるほど、生物の死は、客観的に科学的な記述の対象になり得ますし、医者は「脳死」の基準について議論することが出きるだろう。しかし、それらは、いずれも、「対象」として見られた生物、それも「種のサンプルとしての個体の死」なのであって、「この私の死」というものではない。

これを要するに、西欧の近代科学を産みだした近代哲学の主流は、「この私の死」を忘却した思索から成り立っているという意味で、「生の存在学」ということが出きる。

田邊の「生の存在学から死の弁証法へ」のテーマは、西欧の近代哲学/科學で忘却された「この私の死」に他ならない。

「存在と無」は形而上学の問いだが、「生と死」は人間の実存的な問いである。

そしてその射程は、西欧のみならず、日本の伝統思想の根本にも触れる普遍性を持つ。仏教においては「生死(しょうじ)」の問いこそが根本であったから。

ベルグソン的な時間再考

西洋哲学の主流であった希臘的形而上学と異なり、ベルクソンには、世俗化したユダヤ主義の反形而上学ともいうべきものを読みとることが出来る――身体から離脱した精神の拒否、物質的なるものの積極的な価値の承認、一者からの流出と一者への帰還によって万物に統一を与えるのではなく、多様なる事物の内在的生成のプロセスを、自らの経験のなかで働く直観に置いて捉えるところがある。ドゥルーズは、ベルクソンのいう「持続」の中に内在する生成の活動を「差異」と「反復」という二つのキーワードで説明しようとしたのだと言えるだろう。

差異は、「同じでない」という否定概念ではなく、それ自身が肯定的な概念として捉えられる。はじめに「差異」ありき。そうすると、「同じもの」というのは、同一の実体がのっぺらぼうに「存続する」ということではなく、差異の「戯れ」のなかで「反復される」形象の同一性であるという事になるだろう。

映画を見るとき、私達は、たとえば、連続的に推移する時間の中で「同じもの」が存続しつつ様々に運動するする映像を見る。しかし、その連続性は見かけのものであって、実際は、非連続的な画面の一齣一齣が、入れ替わっているに過ぎず、それぞれの駒のなかで、同じ形象が「反復」されているに過ぎない。

「同じもの」よりも「異なること」が優先すること、「存続」する「もの」は、「反復する」形(イデア)によって生み出されることの、良き類比を映画は与えているように思われる。

私自身は、ベルグソンが考えたような「連続的な持続」の概念だけでは時間の持つ差異化の能力(創造性)は十分に説明されないだろうと考えている。単なる「連続的」持続ではなくて、時間には「非連続性」という契機がなければならぬ。この非連続性は、時間的なるものを空間的なるものから分離して考察している限り、明らかにならない。時間と空間を統合する視点がどうしても必要となるだろう。

田邊の場合だと、ベルクソン的な時間概念の批判、あるいはハオデッガー流の現存在の時間性の分析論にたいする批判は、「種の論理」を構想しているときに書かれた論文、「種の論理と世界図式」(1935 全集第6巻)のなかで採り上げられている。

第5章「個体と国家」は、タイトルだけを見ると社会科学の話かと読者に思わせるが、実際は、個体の発生をめぐる生物学の話から始まる。

中沢はここで、エイデルマンの「場所的生物学」(1988)などに見られる形態形成(モルフォゲネーシス)の考え方を田邊の「多様体としての種的基体」の議論に重ね合わせる。もちろん、田邊がこういう20世紀後半の生物学ないし発生学を知っていたわけではないのだが、種の論理に於ける「個体の形成」の機構を直観的に理解するためのイメージ群のひとつとして、中沢は現代生物学のアイデアを利用したのだろう。

しかし、なぜこういうコスモロジカルな話が国家論というポリティカルな話と結びつくのか、疑問に思う読者もいるかも知れない。さしあたっては、国家論としての「ポリーテイア」と宇宙論としての「ティマイオス」をセットにしてイデア説を論じたプラトンその人の顰みに倣って、田邊自身が、宇宙論と国家論との交差する場で、「種の論理」を構築したのだと云っておこう。このことを想起すれば、中沢のとった手続きは見かけほど突飛なものでない。 

プラトンに於いては、場所(コーラ)が「生成の乳母」として形態を受胎させるうえで重要であるが、これは、「有」と「無」との間の中間領域のようなハイブリッドな役割を果たしている。

このような「場」の概念は、20世紀の物理学に於いては中心的なものである。真空中を運動する粒子的実体の力学を研究する古典物理学は、場の物理学と統合されて、量子場の理論となり、かつてはなにものもそこにない空虚な空間にすぎぬと思われたものが、微視的な領域に於いては「真空の揺らぎ」を孕む生成消滅の運動を内包する「場」として復活した。こういう量子物理学の発展は、田邊は非常に早い時期から自覚しており、それが晩年の彼の科学哲学に反映されているが、生物学についての言及は比較的少ないのである。

生物学に於いて「場」のもつ重要性が強調され、発生学における形態生成の機構が数学的な手法によって解明されるようになったのは、田邊以後のことである。それゆえに、中沢が、ここで、「場の生物学」のアイデアで田邊の議論を具体的に示したことは、アナクロニズムといって非難すべき事ではなく、むしろ、田邊が論じ得なかった事柄を、田邊と共に思考しようとしたという点で評価すべきものである。

中沢がここで使っている基本的なイメージは、「<強度の軸>と<繰り広げの軸>の二つの力動的な軸の交わりで出来ている多様体」として、田辺の言う種的基体を捉えよう、ということに尽きる。(126頁)

実際に「種的基体」で起こっていることは直接に観察されないが、それを二つの軸に射影したものは観察できるということだろう。<強度の軸>とは、中沢が前の章で何度も繰り返した「内包的なるもの」の求心的な活動、「巻き込み、縮約する」という働きに対応し、<繰り広げ>とは、「外延的なる」の遠心的な活動、空間的な構造へと展開するダイナミズムである。

個体の自己形成は、このような二つの動的な活動の軸に沿う「形態形成の場」で行われるが、中沢は、空間的な構造を形成する<繰り広げの軸>よりも、<強度軸>のほうを重視する。そこでは、ドゥーズの「差異と反復」の議論が手引となっている。(134頁)「どのような個体性も強度的であり、したがって滝のように落ちるものであり、水門によって水位を調節するようなものであり、しかも相互連絡的であって、要するに、個体性とは、その個体性を構成する諸強度において差異を即時的に含み肯定するものである」とドゥルーズは云っているが、中沢はその議論を受けている。

ここでの中沢のやや煩雑な議論を私は次のように理解している。「強度(内的な経験の充実度)」が言えるのは、主体的な活動についてのみである。種的基体にはいまだ存在しない「主体性」が登場するときに、はじめて種的基体は、現実に活動するものとして個体化されるのである。その求心的な活動があって、はじめて遠心的な(外延的な)構造の形成が行われる。「経験論と主体性」においてドゥルーズが述べた「経験によって目指される主体性」というものの原初的なかたちが、生物の形態発生の原初的な場面に於いて登場しているのである。

このような生物学的な類比を通じて、中沢は、「種」をカオスとして、「非有の前存在的な多様体」と規定し、「個」の形態形成の機構を、「単なる種の分割ではなく、種の否定的な統一」としてを理解する。(135頁)そして以上のような生物学的な議論を展開したあとで、中沢は、いよいよ「個体と国家」という第5章の主題に取りかかる。

国家論のポイントは、田邊が、種の論理によって、「日本人の思考が陥りがちな共同体的な<自然存在論の主体なき基体の立場>と、すべての共同体的なものを否定し、各個人の倫理的決断だけによって社会を構想しようとするところに辿り着く、近代の<人格存在論の基体なき主体の立場>の双方がおちこんでしまうアポリアの乗り越え」を模索したと云うところにあるだろう。 

田邊元と日本の敗戦

たしかに、中沢は、田邊の国家論について論じながら、日本の敗戦という「歴史的現実」を田邊がどう受け止め、何を行ったかについて具体的には、あまり論じていないですね。特に、日本の敗戦という事実をどう受けとめるのか、この歴史的な問いを欠落させて、田邊の「種の論理」を論じても、リアリティがない。中沢の、コスモロジカルな考察を優先させる語り方は、従来の論者が、彼の哲学を無視して、政治思想のみを戦後の支配的なイデオロギーの価値基準に照らして一面的に断罪したことへの反動かも知れないが、こういう啓蒙書の限界内であっても、もうすこし踏み込んだ議論があっても良かった。

たとえば、矢内原伊作の伝えるところによれば(田邊全集月報)、敗戦が決定的になったとき、田邊は極秘のうちに、西田を通じて、時の政府に「天皇家が荒廃した国土を復興するためにその全ての財産を投げだし、<みずから無一物となる>ことを進言する手紙を送っている。(近衛公は西田の弟子であり、政府とのパイプが彼にはあった)それも、占領軍によって一方的に強制される前に、天皇自身が「自己の自由なる意志」でそうすることが肝心だというのが、田邊の提言であった。もっとはっきり言えば、田邊は、昭和天皇が、日本の精神的な伝統の真の体現者であるならば、自ら責任をとって自己否定すること、(それも退位するなどという生やさしいことではなく)「無一物となる」ことこそが、相応しいやり方であり、そうすることによってのみ日本の伝統の体現者に真にふさわしいものとなると考えていたのである。この田邊の書簡は結局の所、近衛公には渡されなかったし、かりに渡ったとしても、彼の提言は実現しなかったであろう。実際の歴史は、周知の如く、米軍の占領政策の基本方針は、結局の所、天皇を退位させず、その政治責任をとらせずに「象徴天皇制」として存続させることとなったのであるが、このような戦後の天皇制のありかたについては、田邊は大きな疑問符を付けていたのに違いないのである。

中沢は、「フィロソフィア・ヤポニカ」の第4章「多様体哲学としての種の論理」のなかで、田邊の「マラルメ覚書」に言及している。ここで、この本の読者に注意したいことが一つ。それは、「種の論理」は、基本的には戦前の田邊の哲学であるが、「マラルメ覚書」は1961年の最晩年の著作だということ。 

中沢の田邊論だけを読んでいると、日本の敗戦と自己の戦争責任を総括した書「懺悔道としての哲学」以後の田邊の苦渋に満ちた思索の航跡が抜け落ちてしまう。つまり、「種の論理」(全集6巻)だけから彼の「マラルメ覚書」(全集13巻)を論じることは出来ないと云うことである。

田邊の代表作をひとつあげろと云われれば、やはり「種の論理」ではなくて「懺悔道としての哲学」をあげたい。実は、私が田邊に興味を持つきっかけは、田邊の弟子であった武内義範と南山大学宗教文化研究所所長のジェームス・ハイジックによるこの書の英訳、Philosophy of Metanoetics を読んでからである。妙なことであるが、私自身の田邊発見は、米国に滞在していた十数年前に、英訳を通じてのものであった。このMetanoetics という英訳のタイトルは、「懺悔道」という日本語のタイトルよりも、この書の内容を良く表している。メタノエティックスとは、悔い改めを意味するメタノイアという(新約聖書で多用される)ギリシャ語と、ノエーシスの立場(これはプラトン主義でいう叡知的直観)を越えるという意味での、メタ・ノエーシスの二つの意味がある。だから、この書は、キリスト教よりは仏教、それも親鸞の浄土真宗について論じているにもかかわらず、米国のキリスト教神学者達の方が、すぐに内容を理解できる側面を持っていた。

田邊は、メタ・ノエティックスによって、哲学そのものを否定することを考えた。もはや哲学とは言えぬところで哲学する、そのときに何が起こるのか。単純に宗教に行くとか、詩に行くとか、そういうことではない。ともかく、そういう既成のシステムの一切は崩壊しているというのが、田邊の云う意味での歴史的現実であり、彼は、同じこと−絶対無の転換−を、宗教に対しても、詩に対しても要求したであろう。

西田やその弟子の西谷らの宗教哲学には、臨済禅の伝統−その僧堂における生活、初関から大事了畢にいたる公案禅の修行体系、直指人心・不立文字・見性成仏のテーゼなど−が色濃く影を落としている。西田が、「絶対無」をいうのも、彼が、臨済禅の修行の初関である「無字の公案」に悪戦苦闘したことと無関係ではない。

これに対して、田邊は、「禅宗」という呼び名を否定し、「本覚思想」(衆生は本来仏であるという土着化した日本仏教の思想)を批判し、臨済宗の「見性」(仏の本質を直観する)という考えを批判した道元に傾倒していたが(「正法眼蔵の哲学私觀−全集5巻)、かれが西田の云う行為的直観(action-intuition)ではなく、行信(action-faith)の立場をとることをはっきりと表明したのが、この懺悔道としての哲学である。

直観とは、プラトン主義ではイデアを見る働き(ノエーシス)であり、キリスト教的に云えば全知の神の視座から、「永遠の相に於いて見る」こと、仏教ならば、仏陀(目覚めた人)のように見る、働きである。ところが、我々の歴史的現実には、そのようなことを原理的に不可能なものとするものがある。この不可能性にたつことが、見ること(ノエーシス)を越えるメタ・ノエーシスであり、行為的直観ならぬ、行信の道として、田邊が自覚的に懺悔道としての哲学で選び取った道なのである。

西田と田辺の関係

 西田と田邊はその哲学的立場が厳しく対立したために、西田が停年で退職する前の京大の哲学研究室は二人に間に一種言い様のない緊張感が漂っていたと弟子達が伝えている。二人を師と仰ぐ弟子達も、外的権威に寄りかかるのではなく、事柄自身を自分の眼で見、自ら決断しなければならぬことを感じたことだろう。

ただし、西田は、公表された論文の中では、直接に田邊に言及することは稀であった。傍目には、田邊の批判を無視しているような傲岸不遜の態度にも見えただろう。田邊は西田を乗り越えるべき相手として、あるいはライバルとして見たかも知れないが、西田は田邊をそのようには見なかったのだから。

西田は、誰か他者を批判しつつ自説を展開するというスタイルを好まなかった。結局の所、他者を批判しても、それは他者に自己のあり得べき可能性の一つを投影し、それを批判しているに過ぎないのかもしれぬ。そうならば、他者を名指しで批判したり、それに答えることには、云ってみれば実物ではなく、幾重にも鏡像を重ねるような無益な無限後退に陥る危険性を常に内在させている。

だから、西田は、批判者に映じた自己の姿というものを、あくまでも、自己反省のための一つの素材としてしか見ない。間違った批評であると確信しても、第三者の前でそれを訂正したり、むきになって反論したりする必要を感じない。西田は、自分が哲学的に形成しつつある立場が、本質的に新しいものであり、容易には人に理解されないものであることを知っていた。だから、無益な論争を避け、ひたすら自己の立場を徹底させ、そこからその都度新たに哲学の思索を展開することに専念したのだと思う。

第6章「欲望としての西田哲学」のテーマは、丁度京都大学を停年で辞める少し前の西田哲学である。田邊が共感と共に大いなる反発を感じ、「西田先生の教えを仰ぐ」という論文を皮切りにして対決を深めていった時期にあたる。中沢が依拠しているのは、西田全集第5巻所収の「一般者の自覚的体系」であるが、実は、西田哲学は、これ以後も独自の展開をとげ、全集第11巻の「哲学論文集第七」にまで至る膨大な著作群がある。したがって、読者は、中沢がフィロソフィア・ヤポニカで論じているのは、中期の西田哲学のある限定された曲面に過ぎないことを予め銘記しておく必要がある。

 さて、中沢は、西田哲学を「欲望の哲学」と解釈する。おそらく、彼が念頭においているのは、フランスでフロイト流の精神分析学を継承したラカンの理論である。ラカンと西田とのあいだには何の直接的交流もなかったはずであるが、面白いことに、田邊が西田批判に傾斜した1930年代、ラカンはフランスでコジェーブのヘーゲル講読を聴講している。後に、かれは、この講義にヒントを得て、ヘーゲルの言う「精神の自己意識」の生成過程を、精神分析学の用語で「欲望の哲学」として再解釈するようになるが、中沢が西田を再解釈するやりかたは、このラカンの方法にならったとも言えるだろう。

中沢は、西田が「意志」とよんだものを「欲望」と言い換え、「一般者の自己限定」を、精神分析学の用語としての「去勢」で置き換える。そして、プロチノスの「一なるものからのヌース(知性)の発出」を言い表す文章を引用した後で、中沢は「自己が自己の内に自己を見る」という西田のいう自覚を、ラカンの鏡像理論によって説明する。

西田哲学を精神分析学と関連させて論じることには中村雄二郎や木村敏に先例があるが、ここまであからさまにフロイド・ラカン流の精神分析学で西田哲学を再解釈しようとした事例は他にないだろう。京都大学の西田の後継者達が聞けば目を丸くするような「場所の精神分析」の話が続くが、良くも悪くも、このあたりが中沢の本のオリジナルな所か。

鏡は対象的認識ならぬ自己知を表すという意味で「反省的な知」のアナロジーであるが、そのような自己知には、ある欠如ないし代償がともなうがゆえに、自己は、おのれの欲望を徹底させるために、自己の場所の「底に超越」して、さらに深く意識の深層へと下降する。その場所は、次第次第に深められて、真善美が統一されるプロチヌス的な「叡知的世界」にいたるが、西田の場合は、そこにも満足せず、最後には、「そこにおいては神もなければ我もない」という「絶対無の場所」に至る。このダイナミズムは、たとえば、マイスターエックハルトのような徹底したドイツ神秘主義―神人合一を突き抜けた「離脱」−にも、臨済禅の殺仏殺祖の無位真人の気概にも通じるだろう。 ここで云う「欲望」は、もはや単なる個人的な性欲のレベルを離脱して、宇宙論的な「大欲」と云うに相応しいものとなる。

どうみても疑似科學という側面をぬぐい去れないようなラカン流の曖昧な図式的説明が目立つという欠陥はあるが、精神分析学に固有の「汎性欲主義」の狭隘さと偏見から自由になるならば、中沢の着眼した論点は、もっと生産的な形で生かすことが出きるかもしれない。

断想−「反復」と「復活」

すぐれた哲学は、どれほど抽象的な語を駆使して述べられているように見えても、実際は、もっとも具体的な世界を語るものである。その世界は、あまりにも身近にあるために、普通には意識されない。丁度、余りにも近いものは肉眼で見えず、顕微鏡の助けを借りることが必要であるように、もっとも具体的なもの――時には私自身よりも身近なもの−−を十分に良く捉えるためには――感性的な直観だけでは不充分であって、抽象的な概念(コンセプト)の助けを借りて、この世界をあたらしく見直す必要がある。

今日は、「反復」と云うカテゴリー(範疇=ものごとを捉える基本概念)を考えてみよう。これは、キルケゴールの諸作の主題でしたし、ハイデッガーも、「存在と時間」という書物で、人間の「あり方」を反省したときに、過去にたいする人間の本来的なかかわりを表すものとして「反復」という概念を使った。最近では、ドゥルーズが、その主著である「差異と反復」のなかで、まさにこの「反復」を主題として繰り返している。

 田邊なら、この「反復」に該当する概念(実存カテゴリー)をなんと表現するか。

じつは、それが、「復活」であり、より正確には「死/復活」と言い表される彼独自の概念なのである。

「懺悔道」としての哲学でこれが登場するが、明らかにかれはキルケゴールの考え方に共感して、「死/復活」という語を用いた。ただし、このカテゴリーを、とくにキリスト教だけに該当するものとは考えず、もっと普遍的に人間の実存一般にあてはまるものとしてつかうのが田邊の用語法である。

四月は承知のようにキリスト教では復活祭という最も重要な行事が行われる。これは、キリストの「死と復活」を記念する祭儀であって、西暦の起源を考えればもう2000回も「反復」された祭儀である。あらゆる儀式がそうであるように、復活祭はその手順がきまっており、聖書の同じ箇所が朗読される。キリストのエルサレム入城、逮捕、裁判、十字架上での死、そして復活という受難物語のドラマが協会劇として上演され、キリスト教徒は、2000年前の過去を現在に於いて反復し、そこに孕まれた「来るべき時」(将来)に備えて、宗教的な実存をあらためて生きなおす。

キリストの受難劇に人間の時間的な実存の構造そのものを読みとるならば、それは単にキリスト教という一宗教に固有のドラマなのではなく、万人にとってもっとも身近な出来事となるだろう。