田中裕(丹仙)
NHK第二放送:市民大学講座 1999年10月、12月 講演記録
「善の研究」に始まり「場所的論理と宗教的世界観」にいたる西田の思索は、丁度日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗北に至る近代日本の歴史と重なります。 そこで、西田の思想の軌跡を、その日記や書簡などを手掛かりに辿ってみましょう。最初は日露戦争の旅順陥落の頃、戦勝祝いに沸き立つ金沢で、それに背を向け、ひたすら参禅する西田の姿が浮かびます。明治38年1月5日、西田35歳の時の日記。 午後打座。正午公園にて旅順陥落祝賀会あり、万歳の声聞こゆ。今夜は祝賀の提灯行列を為すと言うが、幾多の犠牲と前途の遼遠なるを思わず、かかる馬鹿騒ぎを為すとは、人心は浮薄なるものなり。夜、打座。雨中にも関せず、外は賑わし。 西田は内村鑑三や幸徳秋水のような反戦論者ではありませんでしたが、彼は、それでもどうしても戦勝を祝う提灯行列には参加できなかった。その理由は、日露戦争で大陸にわたった西田の弟の憑次郎が戦死し、その遺体もまだ遺族のもとに帰らないと言う状況におかれていたからです。戦死した弟について西田はそれを弔う文章をたくさん書き残していますが、それを読みますと、弟の戦死の少し前に、西田は自分の娘も病気で亡くしていたことが分かります。 西田幾多郎全集第一巻にある文章を引用して見ましょう。 「余が始めて骨肉の死ということを実感したのは余が十三、四才のころ、余が姉の病死せし時であった。余はこの時始めて人間の死が如何に悲しきものなるかを知り、人なきところに至りて独涙を垂れ幼き心にも、もし余が姉に代わりて死し得るものならばと心から思ったこともあった。近くは、三十七年の夏、悲惨なる旅順の闘いに、ただ一人の弟は敵塁深く屍を委して、遺骨をも収め得ざりし有様、ここに再び旧時の悲哀を繰り返して、断腸の思い未だ消え失せないのに、またおのが愛児の一人を失うようになった。」 西田の4才年上の姉は、女学校を出てすぐに病死、そして三歳下の弟の「名誉の戦死」、さらに追い打ちをかけるように、長女の病死が続きます。とくに娘の死は大きな痛手であったらしく、次のような文もあります。 折にふれ、物に感じて思い出すのがせめてもの慰謝である。死者に対しての心尽くしである。この悲しみは苦痛といえば誠に苦痛であろう。しかし、親は、この苦痛の去ることを欲せぬのである....親の愛は、まことに愚痴である。冷静に外より見たならば、たわいない愚痴と思われるであろう。しかし、余は今度、この人間の愚痴といういうもののなかに人情の味のあることを悟った。 カントが言った如く、ものには皆値段がある。一人、人間は値段以上である、目的そのものである。いかに貴重なる物でも、そはただ人間の手段として尊いのである。世の中に人間ほど尊いものはない、物はこれを償うことはできるが、いかに詰まらぬ人間でも一のスピリットは他の物をもって償うことは出来ない。而して、この人間の絶対的な価値ということが、おのが子を失うたような場合に最も痛切に感じられるのである。.... 今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていたものが、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、いかなる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほど詰まらぬものはない。ここには深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。死の問題を解決するというのが人生の一大事である。死の事実の前には生は泡沫の如くである。死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることが出来る... この文章は、30歳代の西田の関心が何処にあったかをはっきりと教えています。当時、西田は第四高等学校でドイツ語と倫理学と心理学を教えていました。しかし、日記の中に 「余はpsychologist(心理学者), sociologist(社会学者)にあらず、life(人生)の研究者とならん」 と記しています。西田の最初の著作の表題は「善の研究」で、その骨格にあたる部分は高等学校の倫理学に授業のテキストに使われた物ですが、当時の四高の校長は、西田が倫理学の授業で宗教にまで踏み込んで語るのを快く思わず、西田とことあるごとに対立したと言われています。教育勅語に表されているような国民的倫理道徳を教えることを望む教育者からすれば、講義の中で仏教者のみならず西洋のキリスト教者の言葉までも縦横に引用する西田のテキストはいかがわしい物に映ったに違いありません。そのためでしょうか、西田自身は、後に東京大学から講師として教えないかと言うことを打診されたときに、自分の専門は倫理ではないとはっきりと言っています。 実は、西田自身は四高の学生の時に、行状点が百点中八点という成績で、素行不良のため落第しています。何故、そんな成績を付けられたか、それには、時の文部大臣森有礼によって断行された学制改革と関わりがあります。もともと西田が入学した石川県の専門学校は加賀藩の藩校の伝統を継承した家族的な雰囲気の学校でしたが、学制改革で、一九八七年に第四高等中学(四高)と改称され明治政府の直接的管理下におかれます。四高の開校式では、幾多郎達学生は、「大名行列」を迎えるかのように、山中温泉から来る文部大臣を迎えるために金沢市から5,6キロ離れた野々市のあたりで雨の中を半日余りたたされたと言います。四高の初代校長は鹿児島の県会議長をしていた人、校長についてきた幹事や舎監もみな薩摩人で、旧加賀藩の藩校にあった師弟関係はなくなり、規則ずくめな武断的な学校に変身したという事情があります。このような学風の変化に、西田の親友であった山本良吉を中心とするグループが反発し、軍事教練を無断で欠席するなど意図的に校則を無視した、その学生達の運動に西田も参加していたことが原因です。この反乱に参加した山本良吉は1888年に退学、西田もやがてその後を追うように四高を中退してしまいます。この当時の山本や西田を中心とするグループがとった写真が残っています。それは、1889年明治憲法発布の日で、山本は「頂天立地自由人」という文字を掲げ、「我尊会」というサークルを作った彼らの心意気を良く表しています。この写真に写っている仲間の内、藤岡作太郎や松本文三郎等は、校長の説得で勉学を続け、後に東京帝国大学に入ってエリートコースを歩みますが、西田は素行不良で落第した後、山本良吉の後を追うようにして四高を中退してしまいます。尚、鈴木大拙も四高中退ですが、これはこの騒動とは関係なく、授業料が払えなくなったという経済的な理由でした。 いずれにしても、高等学校を中退したことで、その後西田は、明治の新しい教育制度のもとでは非常なハンディキャップを追うことになりました。 青春時代の西田を語る場合、教師といつも対立していたとか、人格的に影響を受けた先生が居なかったと考えてはなりません。西田に決定的な影響を与えた学者がすくなくも一人居ます。それは、専門学校の時代から教えを受けていた数学者の北条時敬で、彼の家に西田は書生のように下宿していた時期があり、そのころのことを、西田は次のように回想しています。 「北条先生が私に自分の家に来いと言われるので、私は先生のお宅に厄介になった。先生はいつも学校から夕頃帰ってこられる。夜には座敷で、先生のテーブルを真ん中に、左右に奥さんと私が机を並べて勉強する。遅くなると、先生が私にもう寝よと言われる。私が自分の部屋に帰って床についても、私の癖で、時々眠れないことがある。すると12時頃から先生の室で琴の音が聞こえ始める。夜の更けるに従って琴の音は益々冴えてくる。そのうち私は寝てしまう。...先生は朝寝坊だ。私が学校へ行く頃、いつも先生の起きていられたことはなかった。」 まあ、なんともほほえましい回想ですが、西田が恩師と呼んだのは、その後、彼が師事した哲学者にはひとりもなく、ただ数学者の北条時敬だけです。数学を通じて学問の面白さを教えて貰っただけでなく、起居を共にすることによる決定的な人格的影響があったようです。また、北条は西田が後に参禅するようになる機縁を与えた人でもありました。雪門老師という臨済宗の僧侶のもとで参禅していた北条は、とくに西田に座禅を勧めたわけではないのですが、ある時、禅について西田が質問すると、江戸時代の禅僧白隠の書物を与え、「脇腹に刀を差し込む勇気があったらやれ」と言ったそうです。鈴木大拙も又、この「遠羅天釜」を手にいれ、雪門老師の門を叩いています。 さて、ここで、西田の中学以来の親友であり、思想的にも相互に影響しあった鈴木大拙が日露戦争当時、どうしていたかをお話ししましょう。大拙は雪門の門を叩いた後、鎌倉の釈宗演老師のもとで修行、老師について一八九七年に米国にわたり、その後一九〇九年まで米国のポールケーラスのもとで漢訳の仏教経典を英語に翻訳紹介するという仕事に従事します。特に、日本仏教に大きな影響を与えた大乗起信論の英訳、および英語で書かれた大乗仏教の入門書、Outlines of Mahayana-Buddismを米国で出版します。この二著は、日本よりも先に米国の学者によって良く引用される文献です。「善の研究」とほぼ同じ頃に書かれたこの作品は、西田にも大きな知的刺激を与えたに違いありません。さて、先ほど、肉親の死に直面して西田が四高以来の親友、藤岡作太郎とのやりとりをお話ししましたが、鈴木も米国から、西田を気遣って書簡を寄せています。鈴木大拙未公開書簡として最近公開された物の中から、鈴木が西田の為に創作したソネット(英語の一四行詩)がありますので紹介しましょう。 A sonnet to Nishida who lost his brother in the siege of Port Arthur O human life, what a fragile thing thou art! A drop of dew on a weather -beaten leaf, By passers ’ feet down-trodden; and how briefThy glitter! Too soon fated to depart To a region, who perhaps didst thou first start. The mornful thought doth follow us like thief; Heavily opressed we are without relief; Eternal void, would thou allay our heart! And yet ours is to strive, to weep, to bear; Human are we, with fire in our veins burning; To Reason ’s hollow talk let’s not concede.Our tears run free, the heart its woes declare! From every grief endured life ’s lesson learningInto the depths of Mystery we read. ああ、人の命よ、汝はなんと儚いものか 風雨に晒された木の葉の上の露の一滴 行く人に踏まれ、そしてかくも短き 汝の輝き!あまりにはやく逝く定め おそらくは汝の来たりし初めの場所に 弔う思いは秘やかに我らに従い 打ち沈む我らに安息はない 「永遠の空」よ我らの心を癒やし給え しかし我らの心は、苦しみ、泣き、忍び 人の子なる我らには血潮がたぎる 理性の空虚な話には耳を貸さぬように 涙を存分に流し、心は悲しみを叫ぶ 耐えた一つ一つの悲しみから人生の教えを学び 「不可思議」の奥底にそれを深く読みとる 私は、この大拙の詩に、藤岡作太郎と西田の間にあった物と同じような心の共振共鳴の様なものを感じます。そして、英語で書かれたこの詩をみて気付くこと、不思議に思うことが、ひとつあります。それは、キリスト教徒ならば、神(God)と呼びかけるべきところにで、鈴木が「永遠の空」Eternal Void と言い、それに「汝(thou)」と呼びかけている事です。 「神」よ、我らの心を癒やし給え God, would thou allay our heart! ではなく、 「永遠の空」よ、我らの心を癒やし給え Eternal Void, would thou ally our heart! です。大拙は、何故このような表現を使ったのでしょうか。それは、どのような意味を秘めているのでしょうか。或いは、どのような宗教的な可能性を秘めているのでしょうか。この問題を、この講演の最後で、皆様とともに、西田の哲学的思索を辿った後で中で、もう一度考えてみたいと思います。 さて、相次ぐ肉親との死別の悲しみに耐えながら、ひたすら参禅を続けた西田ですが、なかなか、老師から見性をゆるされません。「見性」というのは自己の本性(本質)を見極めると言う意味で、俗に言う「悟り」ですが、臨済宗では、老師のもとに入室聞法する弟子が、最初に突破する関門という意味があります。普通は、無門関にある趙州「無字」という課題が与えられます。それは、或る僧の「犬に仏性があるか」という問いに対して、趙州が一言「無」と答えた、その無を究めよ!という公案です。これは、単に犬のような詰まらぬものにも仏性(仏の本質)があるか?というだけの問いではなくて、問うているもの自身に、「お前にも果たして仏性があるか」と問うことでもあります。つまり、問う人自身が問われる問いですから、修行者は、自己自身を挙げてそれに答えることが要求されます。普通には、思慮分別を捨て、ひたすら王三昧の禅定を深め、「無」になりきって老師のもとに来ることが参禅するものに要求されます。さて、西田は、この公案が透過できずに、ひたすら悪戦苦闘しますが、ついに、1903年に大徳寺の廣州和尚のもとで独参し、この「無字の公案」を透過します。 しかしその日、西田は日記に次のように書き記しています。 7月19日 無字をゆるされる。されど余甚だ喜ばず。 つまり、老師は認めてくれたけれども西田自身は不満であったと言うことでした。これはどのように理解すべきでしょうか。体験の事柄としての「無」は透過しても、西田には、ある意味で自分自身の要求が満たされていない、つまりまだ「無」の課題が未了であると判断されたのです。敢えて言えば、「無」を哲学の問題として、どこまでも究めていくということが自己の生涯の課題となること――それゆえに、それ以後の西田にとっては、座禅して瞑想することだけでなく、哲学する事そのこともまた、「無」の公案を究める新たな途になっていったように思われます。 そのことは、まだ座禅を始めて間もない頃に、西田が京都で滴水和尚の基を尋ね、手紙で禅について質問したときに、和尚から貰った次の手紙を、西田が生涯、大切に補完し、後で掛け軸ににして弟子の久松真一に贈呈したことからも分かります。その手紙は 古徳曰 我無語句一法 無与人 無 老僧此外更に教示なし 已来は筆談御免二月四日 滴水 西田雅生 「我に語句なく一法の人に与えるもの無し」というのは中国の禅者徳山の言葉。 これは決して、詰まらぬことを手紙で質問するな、というだけの意味ではありません。むしろ「無」を大書することによって、西田に自ら探求すべき課題を与えたものと理解すべきでしょう。 「無」を哲学的に究めると言いましたが、それは、「無」という言葉を、哲学の用語として積極的に使うと言うことを必ずしも意味しません。思想家が、自分にとって最も重要なものをあからさまに語ることは、寧ろ稀であります。西田哲学の根本概念が「無」であること、それも「有」と対立する「無」ではなく、そのような対立を越えた「絶対無」であることは良く指摘されますが、この「絶対無」という言葉は、後で言いますように、西田が宗教について触れる決定的な場面で登場するわけですが、それほど高い頻度で使われているわけではありません。 西田の最初の著作である「善の研究」のキーワードは「純粋経験」です。 この言葉自体はアメリカの心理学者で哲学者でもあったWilliam Jamesの使用したPure Experience の翻訳語ですが、この「純粋経験」と、やがて西田哲学の根本となる「無」とはどんな関係にあるでしょうか。それは、禅仏教に伝統的な言い方をすれば、「無我」、「無心」、「無念無相」 などの言葉で指示されていた境地(経験のあり方)が、西田によって「純粋経験」として哲学的に用語化されたと言うことを意味します。即ち、西田のいう「純粋経験論」は「無」の心理学、「無」の「こころ」の究明と言って良いでしょう。 純粋経験論が出てくる「善の研究」という著作は、西田の書いた物のなかでは非常によく読まれたものですが、西田自身の自己評価はあまり高くありません。一時は絶版にしようと思った、ということも書いていますし、それが哲学としては不十分であったということを再三書いております。しかし、そうではあっても、西洋の形而上学の伝統との対比に於いて西田の純粋経験論を位置づけてみますと、やはり、「純粋経験」の捉え方に非常にオリジナルな所があったと思います。西田は『純粋経験』を、単に感覚的な経験のみならず、概念的な思考や反省そして更には知的直観までをも含む我々の経験のすべてが、そこにおいて生じ、その自発自展と見なければならないような、絶対的な根源を指示する語として使用しています。そのような根源が、私たちのきわめて身近なところに、「今此処」にある。それはあまりにも直接的であるために、理性的な思考では素通りしてしまうが、どんな人でも経験しているはずの物なのです。その存在に気付かないのは、純粋経験が、経験する自己よりも、経験される対象よりも先なるものだからです。従って、純粋ならざる経験の立場から見れば、いかなる色にも染められていない純粋経験の姿は見えなくなります。それは、文字通り無念無相、無我、無心というべきものですが、これらの否定的表現が、なにか消極的なものであると考えるのは間違いとなりましょう。純粋経験とは、余計な夾雑物を除去ないし括弧にいれて得られた残余と考えるべきではありません。不純なものを意識的に除去するという操作によっては、純粋経験は得られないのです。類比的に言えば、それ自身は色彩を全くもたぬ純粋な光がそのなかに自然界の全ての色を潜在的に含む様に、『純粋経験』は一切の経験の豊饒さを内蔵する『経験の最淳なるもの』を指すのでしょう。反省的分析によって我々に知られる経験はつねに抽象によって顕在化した純粋経験の展開の一つの相貌にすぎないのですから、実際は、知的な反省も、概念的な分析も含めて、人間経験の全てがそこから生まれる根源なのです。 「無」の最初の定式、その心理学が「純粋経験」論だと言いましたが、本来の意味での西田哲学の成立は、それよりもずっと後の時期になります。、金沢から京都に活動の場を移し、大学の哲学の教授となってからも、西田は沢山の仕事をしていますが、善の研究に続く作品では、「自覚に於ける直観と反省」が重要です。 京都大学教授になった西田は、かつてのように自己の関心の赴くまま著述に没頭するというわけに行かなくなります。日本の大学の哲学科は、創設されて間がないわけですから、まず、カントやヘーゲルのような古典的な哲学や、現代哲学についても学生に講義しなければなりません。この時期、西田は、ベルグソンの生の哲学、新カント学派の認識論、現象学、ポアンカレの科学哲学、英米の実在論など、同時代の欧米の哲学を日本に紹介しています。この中で、とくに西田の関心を惹いたのは、ベルグソンの「生」の直観の哲学と、新カント派の「反省」の哲学でした。「自覚に於ける直観と反省」という表題は、その二つの立場を一つに統合することをめざしたもので、この書では、「純粋経験」に代わって、「自覚」という言葉がキーワードになります。 「自覚」はドイツ理想主義でいう自己意識、とくにフィヒテの自我の哲学を参照しています。しかしながら、西田のその後の哲学的展開をふりかえって見ますと、ドイツ理想主義の「自己意識」と西田の言う「自覚」には大きな隔たりがあリました。それは、フィヒテの自己意識は、「私は私である」という自我の絶対的な自己主張を意味するわけで、その背後には遡ることのできないものだということです。ところが、西田は、そのような近代的な自我の絶対性にとどまらなかった、その自我が、同時に「無我」であるような場面において「自覚」と言うことが言える。その意味では、そこで言う「自覚」は自己意識ではなくて、仏教が「覚の宗教」であると言われるときの「覚」の場において自己を考える、と言うことなのです。 仏陀とはサンスクリット語で「目覚めた人=覚者buddha」というのが語源的な意味です。言い換えれば、仏教的な意味での「自覚」とは、自己の真実のあり方に目覚めると言う意味なので、それは自我を、ひとつの「もの」として絶対視することの否定を含んでいるのです。それゆえに、「純粋経験」が無の心理学であるとすれば、「自覚」は「無我の自覚」、そこにおいて生の内的直観と概念的な思索が一つとなるような「無の場所」の哲学へと展開していくべきものだったのです。 西田が自分自身で納得のいく体系を発見するのは、停年で京都大学を辞める少し前の時期にあたります。「西田哲学」という名称は、銀行の頭取でもあった左右田喜一郎が「西田哲学の方法について――西田博士の教えを乞う」という論文のなかで、始めて「西田哲学」という固有名を付けた名称を用いたのが始まりと言われます。それは、直接には現在西田哲学全集の第四巻「働く物から見る物へ」に収録されている論文、「場所」をもって、西田哲学の根本と見たことによります。 自覚の場所を論じたこの論文をかいたのは、京都大学を定年で辞める少し前の時期に当たります。その当時、退職する西田に献呈する記念論文集を編集しようと言う動きがあったのですが、西田はそれを辞退します。「論文は、これから書くから」と言うのが、自体の理由であったとのことですが、実際、定年退職後に書いた物の方が、京都大学に勤めていた時期に書いた物よりも、圧倒的に多いのです。 再び、西田の日記に立ち返ってみましょう。停年で退職する頃、西田や依然として、家庭内の不幸に苦しんでいました。脳溢血で倒れた妻が、ほぼ六年ほど寝たきりになり、その世話をしなければなりませんでしたし、娘達はみな病弱で、入退院を繰り返します。当時の西田の歌に 子は右に母は左に床をなべ春は来れども起つ様もなし かくしても生くべきものかこれの夜に五年こなた安き日もなし とありますが、西田のいう「無の場所」の哲学は、こういう惨憺たる家庭生活の最中で執筆されたものであることが分かっています。 一九二三年(大正一二年)の五月二一日の日記には、英語とドイツ語を交えた次のような記事があります。 From this very day I die to the world. I live only in my philosophy. Alles geopfert, alles geopfert ,tiefes einflussreihes Erlebnis これがインクで大書されている。日本語は書いてありませんが、訳せば 「今日、この日から世界に死し、哲学のうちにのみ生きる。全てが捧げられた。 全てが捧げられた、深くつきうごかす体験」 とでもなりましょうか。 また、おなじころに 我が心深き底あり喜びも憂いの波もとどかじと思う という歌も書いています。 私たちの心の深き底、喜びも愁いの波も届かぬ底、最も深い意識の底を、西田は、「無の場所」と表現しています。従来の哲学の用語では全く用を為さぬようにも思われる領域が、西田哲学の主題となります。それは全集で言えば、第四巻「働くものから見る物へ」第五巻「一般者の自覚的体系」、第六巻「無の自覚的限定」という書物の中で展開された、西田哲学のテーマとなります。西田は、自己の哲学の展開の出発点となった「無の場所」という考え方について、「働く物から見る物へ」の序文で次のように要約しています。 私の直観というのは、従来の直観主義において考えられたものとその趣を異にしていると思う。いわゆる主客合一の直観を基礎とするのではなく、あるもの、働く物のすべてを、自ら無にして、自己の中に自己を写す物の影と見るのである、全ての物の根柢に見るものなくして見るものといふ如きものを考えたいと思ふのである.....形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云ふまでもないが、幾千年来我らの祖先をはぐくみ来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云ったようなものが潜んでいるのではななかろうか。我々の心はかくの如きものを求めてやまない、私はかかる要求に、哲学的な根拠を与えてみたいのである。
さて、この「無の場所」にたつ西田哲学は、有と無の対立を越える「絶対無」の場所の哲学です。西洋の哲学では、常に「有」や「形あるもの」が強調され、形而上学とはまさに「有」とは何か?を探求する学問でした。京都大学を停年でやめるころ西田は大学の演習でアリストテレスの形而上学の英訳をテキストに使っていましたが、アリストテレスの中心的な問は「有」であり、それはヨーロッパ中世に於いても受け継がれます。よくontologyと言うことが云われますが、onとはギリシャ語で「有」を意味します。ものを存在させている根拠は何か?と言う問いが、アリストテレスによれば哲学の究極の問いであります。この問いに対して、中世のキリスト教の形而上学は、ものを存在させているもの、絶対的な存在を神と同一視しました。ジルソンという哲学史家によれば、ヨーロッパ中世では、アリストテレスの存在論は、聖書の出エジプト記にある神の名前の啓示、と結びつけられました。つまり神は自ら「有」というその名前を啓示するのです。 ヘブライ語でエヒエ・アシェル・エヒエという神の名前は、ギリシャ語に訳されるとき「我はあるところのものである」となり、神は絶対的な有として、中世の哲学者達に了解されるようになります。 つまりヨーロッパの哲学的な神学の伝統に於いては、「存在を問う」ことは、ものをあらしめている根源を問うと言う意味で、「神を問う」ことと同じであった訳です。無は、存在の欠如として、それ自身価値なき者として了解されていたわけですから、西田のように、ものを存在させている原理を、大文字の「有」ではなく「絶対無」とすることは、そのような存在論と神学の伝統とは全く違ったものの考え方です。 今日、西田哲学を研究する人は日本だけではなくて欧米にもいますが、その中に、とくに仏教から何ごとかを学ぼうとするキリスト教の神学者達がいます。たとえば、一九八五年にアメリカの宗教学会に「西田哲学とプロセス神学」という研究部会が設置され、八年間継続して日本の哲学者も交えて討論しています。これには、南山大学の宗教文化研究所が中心となって西田、田辺、西谷という京都学派の著作を英訳したことも一役買っています。日本のイエズス会も西田や田辺の著作の英訳をいくつか刊行していますね。 禅や浄土真宗などの仏教について語るときならば、西田哲学はそれに呼応するものを持つであろうが、キリスト教のようなそれとは一見異質に見える西洋の宗教に、「絶対無」の哲学が何の関わりがあるのか、という反論もあるかも知れません。 ここで、この講演の初めのほうで、戦死した弟を悼む西田に捧げた鈴木大拙のソネットをもう一度、振り返ってみたいと思います。 そこでは、 「神」よ、我らの心を癒やし給え God, would thou allay our heart! ではなく、「永遠の空」よ、我らの心を癒やし給え Eternal Void, would thou ally our heart! と書かれていました。「空」が人格化されて、慰め主として呼びかけられている。それは神が「空」なる御方として、「汝」として呼びかけられているのです。 このような発想は、本当にキリスト教と無縁なものでしょうか。米国で西田哲学や禅について英語で多くの講演をされた阿部正雄先生という方がおられますが、阿部先生は、新約聖書に神のケノーシス(空化)と言うことが書かれていることを指摘しています。ケノンとは空と言う意味のギリシャ語です。それは、フィリピ書で キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このように、神と等しいものであるにもかかわらず、「自分を無にして」人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であったキリストは、絶対的な「有」として存在の充実の中にある神の概念からは出てこないものです。キリストのケノーシスは、神自身のケノーシスに他ならないという考えを、阿部先生が米国の神学者達に仰った訳ですね。こういう考え方が、アメリカのキリスト教の神学者達に西田哲学に目を向ける機縁を与えたものと思います。 西田とキリスト教との関係について従来あまり注意されなかった事実を指摘しておきたいと思います。それは、一九二五年に妻を亡くした後、六年後、一九三一年に山田琴と再婚していることです。西田六一才の時ですね。西田はこの結婚以後、落ち着いて著作活動に専念できるようになりました。彼女は、クリスチャンでアメリカのヴァッサーカレッジを卒業後、女子英学塾(今野津田塾大学)で教えていた人で、岩波茂雄が紹介しました。 西田全集に 春や来し春来るらし鶯のき啼くあしたはこころときめく とか 年月日いきづき経来し我が心けふたぎりつつ君によれこそ はしきやし君がみ胸に我が命長くもがなと思ふこの頃 などと、西田のそれまでの沈痛な歌とは全く趣の異なる歌がありますが、これは再婚当時、山田琴を念頭において詠われたものでしょう。 クリスチャンである山田琴との再婚が決まる頃、西田は、「自愛と他愛及び辯證法」という論文を書いていますが、そこで 「愛は人格的でなければならぬ。人格的統一と考えられるものは、私に於いて汝を見、汝に於いて私を見るということでなければならぬ」 などとと書いていますし、「ゲーテの背景」と言う論文では、ゲーテの奥底には「マリアの愛、永遠に女性的なもの」「解脱としての自然がある」と書いています。この事実、現在西ワシントン大学で教えていらっしゃる遊佐道子さんが最初に指摘したのですが、彼女は、この時期に書かれた他者と自己の関係を主題とする西田の論文に、山田琴への思いと「永遠に女性的なもの」が交差しているようだと云っていました。「無の場所」は、どうやら二人の人格が、そこに於いて出会う場所でもあったようです。 西田は、四高の教え子でキリスト教神学者となった逢坂基吉郎を通じて、バルト等のいわゆる「危機の神学」を熟知していました。キリスト教の最も純粋な部分を、徹底した神学の立場で語ったのがバルトでしたが、西田はドイツ留学が決まった滝沢克己に、「ハイデッガーには肝心なもの、即ち神が欠けている。今ドイツには見るべき哲学者は居ない。最も深い思想家は神学者のカールバルトだ」と云ったと伝えられています。滝沢氏は、後に「西田哲学の根本問題」と「カールバルト研究」という書物を書き、西田とバルトの二人を恩師として、キリスト教の立場から論じています。 このように、西田に於いては、単に仏教だけではなく、キリスト教というもう一つの世界宗教との対話がそこで可能となるような、ある普遍的な場を我々に用意したと云うことが言えましょう この講演は日露戦争の時の西田の日記の一節から始めました。そこで、最後に、西田の最晩年の西田の言葉を引用して、終わりにしたいと思います。西田は一九四五年、つまり太平洋戦争終戦の直前になくなっています。戦争中の西田を一人の若い哲学志望の青年が、西洋古典学の呉教授と共に尋ねます。それは、のちに東大の美学の教授となった今道友信氏ですが、彼は次のように晩年の西田との対話を書き記しています。「西田先生は、『今は、国家がさらに一般的なもののために自己否定しなければならない時代なのだ。日本もドイツもイタリアも、国家を全面に出しているところが間違っている』と述べ、西洋の古典を深く学ぶことの重要性を指摘し、別れ際に、クリスチャンである今道氏に『君は根拠を持った預言者になれ』と云われた。」 根拠を持った預言者、それは現代の哲学が忘れてしまった課題であるかも知れません。いたずらに過去を振り返るだけでなく、哲学者というものは未来を見据えて、時代の課題を先取りしなければならない。私は、この言葉を非常な重みを持って受けとめています。
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