田中 裕
一 懴悔道以後の田辺元の『科学哲学』の独自性
『懴悔道としての哲学』(1)以後に書かれた、晩年の田辺元の科学哲学上の論文は、前期ならびに中期の著作と一面において連続性を有するとともに、他面においては、全く新しい特徴づけを必要とする不連続性をもっている。まず『科学哲学』という言葉の定義が本質的に変化したのである。 すなわち晩年の田辺が『科学哲学』という語で言おうとした事柄は、伝統的な形而上学や宗教哲学との関係において、実用主義や論理実証主義の流れを汲む現在の欧米で使われている標準的な意味を基準にしたのでは全く理解できないものであることに注意しなければならない。 例えばウィーン学派が『科学哲学(scientific philosophy)』で意味したものは、神学や形而上学の残滓をすべて清算して、哲学を実証的な諸科学の認識論ないし論理学となすところにあった。(2)カントの認識批判を言語批判として継承した彼らにとって、形而上学や神学はいかなる認識的な意味をも否定されるべきものであった。『科学哲学』という用語には、伝統的な哲学の解体、哲学が個別的な科学に解消されることに、歴史の進歩をみる実証主義者の見地が反映されていた。 従って、この意味での『科学哲学』は、宗教哲学や形而上学に根本的な関心をもつ哲学者にとっては、哲学をあたかも『科学の侍女』として扱うごとき態度を含意する点において、伝統的な哲学的知の終焉を告知する厭わしい用語であった。これに対して、カント哲学の批判精神を受け継ぎつつも、それを『絶対批判』の弁証法という独自の仕方で展開した田辺元が『科学哲学』という用語を使うとき、それは科学の探求の現場で科学者の遭遇せざるを得ない逆説ないし二律背反という限界状況を徹底的に考察することを意味しており、彼はその考察を宗教哲学の根本問題へと媒介することを自分の課題と考えていたのである。 『科学と哲学と宗教』という晩年に書いた論文で田辺は『科学は科学哲学にまで自覺を徹底するとき、必然宗教に通ぜざるを得ない』と書き、次のようにその理由を述べている。(TW12:134)(3) 本来、科学と宗教とが矛盾するといふことは、両者がそれぞれ境界を侵すいはゆる越境行為を自由意志によりて敢えてするためにのみ起こるものであるとは限らぬ。若しそうであったならば、また自由意志により各々が自制することによって、両者の闘争は中止せられるはずである。しかるに批判が結論として到達したところの理性の二律背反なるものは、實はいかにするも分析論理の立場において分別し自由意志的に制限することにより解消することのできる矛盾ではないことを示す。それは定立と反定立とが、それぞれ相当の理由をもって主張せらるる不可避の対立であって、それに陥ることは無制約的認識を意圖する理性の免るべからざる運命なのである。理性はこの運命を謙虚に肯定し、一度自己を矛盾の底に壊滅せしめることにより、その死から復活せしめられる挫折即突破の道を行的に信証するより外にゆく道はない。かくして、科学そのもののなかに、認識の徹底的自覚を求める哲学の要求が含蓄せられ、これがその限界状況において、不可避に発現せられることにより、おのづから宗教の立場に通ずることをあらはならしめる。・・・ このような田辺の独自な科学哲学理解は、数理哲学や理論物理学の探求の現場で登場する逆説を実在への通路とする考え方を前提している。彼は、自分の科学哲学をしばしば『科学の公案を解くこと』と表現していた。田辺の宗教哲学が彼の科学哲学における公案修行と不即不離の関係にあることは、基督教信仰をもつ科学者が、自然という書物の中に創造主の言葉を読み取り、存在の比論によって啓示の理解への準備としたことになぞらえることができる。臨済禅の室内で師家の提唱を聞き宗教的なパラドックスと悪戦苦闘した経験こそなくとも、田辺の科学哲学における著作こそ、万人に開かれた書物にほかならぬ自然において現成する逆説的真理の促しによる辧道話として、類比的な意味で彼の公案修行の足跡であったということもできよう。 さらに注目すべきことは、『懴悔道としての哲学』という著作自体が、日本の敗戦という歴史的事実を、田辺が『公案』として受けとめることによって生まれたということである。この文脈では、『公案』という語は倫理的社会的実践において我々の遭遇する二律背反を指すものであり、彼の所謂『倫理的懴悔道』は現実の歴史的構造に由来する『全面的公案』として了解されていた(TW9:125)。それは、決して単に『懴悔を公案とする念佛禅』という折衷的な観点から提示されたものではなく、日本の敗戦とそれに伴う戦争責任という倫理的な問題を全面的に受けとめ、それをみずからの『哲学ならぬ哲学』の起点とすることによって生まれたものであった。 同じ『絶対無』という用語を使用しながらも、歴史と他者にかかわる社会倫理という実践的問題を第一義的に重要なものとみなすことは、京都学派の他の哲学者達のなかでの田辺の位置を独特なものとしているが、彼がこの『全面的な公案』を『過去的限定と未来的形成との矛盾的構造』をもつ歴史的な事実において見いだしたという事自体が、制度化された宗教組織のなかで円環的に固定化された公案修行の体系には収まり切らない問題を開示している。すなわち、円環的な時間構造を突破する『危機断層、革新顛倒をもってなる』歴史過程と、そのなかで提起される実践的な二律背反こそが田辺のいう『全面的公案』の中核をなしているのである。 歴史的世界を主題とすること、またこの現実の世界における二律背反を現成公案としてそこから哲学の問題を捕らえ直すこと、そのためには通常の意味での哲学が否定されるような場所で哲学しなければならないこと、これらは後期西田哲学の中心課題でもあった。しかしながら、この課題の同一性は、西田と田辺の哲学的対立を決して解消することはなかった。田辺は、アリストテレスに帰せられている『プラトンは愛すべし。されど、真理は更に愛すべきものなり(amicus Plato, sed magis amica veritas)』という古語をひいて、彼がいかに曾ての師であった西田に負うことが大きいかを率直に認めるとともに、それにもかかわらず西田哲学批判を執拗なまでに続行しなければならなかった彼の心情を吐露している(TW12:333)。 田辺の西田批判は、ちょうどアリストテレスのプラトン批判がそうであったのと同じように常に正当であったとは言い難いにしても、そのような批判を通して田辺が問題としている事柄自体は、西田と田辺に共通する課題を我々自身が問題とするうえで無視しえぬ重要性をもつものである。新プラトン主義の哲学者達が、執拗なまでのプラトン批判を含むアリストテレスの著作を寧ろ積極的に読み、それを否定的に媒介することによって純化された意味でのプラトン哲学の継承者たらんとしたことは哲学史では周知の事実であるが、それと同じようなテキスト解釈と批判的再構成の方法が、西田哲学と田辺哲学の継承を志すものに対して要求されるのである。 田辺の西田批判については、これまでに数多くの研究文献があるが、その多くは、狭い意味での宗教哲学の見地からのものであって、彼の科学哲学の著作に着目してそれを取り上げたものは決して多いとは言えない。このことは、田辺の言う意味での科学哲学がもっている重みが正当に考慮されなかったということを意味している。そのために、田辺と西田の宗教哲学を支えている個人的な宗教的経験の質の違いが一面的に強調され、ややもすれば、既成宗教ないし宗派の内部でのみ通用する固有の尺度を暗黙のうちに前提した上で、両者の宗教哲学の差異や深浅などが評価されることが多かったのではなかろうか。 『哲学ならぬ哲学』としての田辺哲学は、『哲学ならぬ』面において、確かに宗教的経験に根差しており、このような宗学的ないし神学的尺度と共約可能な側面をもっているが、同時に『哲学』である面において、特定の宗教宗派に拘束されぬ『論理』に貫かれている。そしてこの論理の何たるかを理解するうえで、彼の科学哲学上の著作が重要な手掛かりを与えているのである。 田辺の最晩年の著作の校訂にも携わった西谷啓治は、彼の科学哲学上の著作のもつ意味について次のように言っている。(NW9:259)(4) (田辺)先生には『数理の歴史主義展開』といふ昭和二九年に出版された著作がありまして、これは先生の著作のうちでは、比較的に読まれることの少ない本ではないかと思ひますが、しかし私の感じでは、先生の思想を、一番良くと言ってよいかどうかは分かりませんが、すくなくとも論理の側面では非常にはっきり打ち出してゐるものではないかと思ゐます。そのなかで先生は、この書を一つの覺書と呼んで、『この覺書は私の哲学思想の総決算的告白に外ならないつもりである』と言はれてゐて、事実またさういふ感じのするものであります。 『数理の歴史主義展開』の構想は、すでに『懴悔道としての哲学』のなかで予告されていたことに注意しなければならない。懴悔道には、メタノイア(悔い改め)という意味とともにメタノエーシス(理性の立場を越える)という意味があり、それらが理性に還元されぬ歴史の試練を真正面から受けとめることにおいて収斂している。この試練によって突破される理性とは、理論理性と実践理性の統一を志向したフィヒテ以後のドイツ観念論でいう意味での理性(Vernunft)の立場を含むにとどまらず、ヘーゲルの絶対的観念論の没落以後の自然科学の歴史の中で展開された数学的理性、すなわちカントールの積極的な無限論の提唱に始まり、ラッセル・ホワイトヘッドによる集合論の逆説の発見とゲーデルの不完全性定理によって挫折した数学の哲学的基礎づけのなかで前提されていた理性の立場をも含む射程をもつものであった。そのことは、内容的には徹底した歴史主義にほかならない懴悔道が、『一見極めて縁遠い数理哲学の問題として久しく私の頭を悩ました無限集合論に対する態度などが、他力哲学の行信証によって新しい方向に決定する』ものであったという田辺の述懐に現れている(TW9:7)。懴悔道以後の田辺の科学哲学上の著作は、彼の徹底的な歴史主義の論理が何であるかを理解するうえで重要な手掛かりを含むものでありながら、数理哲学や相対性理論と量子力学との統合という現代物理学の課題の哲学的考察を中心とするものであるがゆえに、狭い意味で宗教哲学にのみ関心をもつ読者に無視された嫌いがある。しかし、西谷が指摘したように、田辺哲学のすくなくも論理的な側面における『総決算』ともいうべきこれらの著作群を読み解くことは、西田哲学のいかなる側面を田辺が問題にしたかを理解するうえで必要不可欠であろう。我々は、科学哲学の根本問題(二律背反の克服)を科学史の展開の現場において考察する彼の思索のあとを辿ることによって科学哲学が宗教哲学に通底するという田辺のテーゼを確認するとともに、歴史を捨象する理観において成立つと田辺が考えた『場所の論理』を、彼が根源的に時間的な行信證のうえに成り立つ『懴悔道(理観超越)の徹底的歴史主義』によって置き換えようとしたことの意味を了解することができるであろう。
二『数理の歴史主義展開』における場所的直観説の批判
『数理の歴史主義展開』の第八章は『数学の自由主義(集合論)より歴史主義(位相学)への進展』という表題がついている。ここでは、数学基礎論における三つの主要な立場、すなわち論理主義(プラトン主義)、直観主義(構成主義)、形式主義(公理主義)のすべてがいずれもそのままでは維持しえなくなったという数理哲学の遭遇した歴史的な現実そのものを分析することにあてられている。この三つの立場を田辺は、それぞれ合理主義の独断論、経験主義の懐疑論、先験主義の批判論に対応させ、この三つの立場のどれもが二律背反ないし循環論をふくむことを明らかにした後で、ゲーデル以後の現場の数学者達がこの二律背反によって課せられた理性の本質的な制約を認めることによって、却って実践的にそれを克服しているという現実を、数理の歴史主義展開として捕らえたものである。 田辺の主張をよりよく理解するために、ここでは現場の数学者の行った数学の基礎に関する哲学的反省を手引きとすることにしよう。一つは、ヘルマン・ワイルの位相学や群論を扱う数学および理論物理学上の一連の仕事とそれらに基づく『数学と自然科学の哲学』という著作である。これは、一九二七年にドイツ語で書かれ、一九五〇年に英訳されたときにワイル自身によって改訂増補されたものであるが、田辺が問題としている科学哲学の全領域を現場の第一線で活躍した数学者の実践的見地から論じたものである。もう一つは、末綱恕一の『数学の基礎』(一九五二年)およびドイツ語でかかれた同一の主題の諸論文である。『数学の基礎』は『寸心先生に捧ぐ』という献辞からもわかるように、西田の言う行為的直観の考えかたに基づいて書かれた数学基礎論であって、『数理の歴史主義展開』のなかでも引用され、田辺の西田哲学批判という文脈のなかで『場所的直観説の不備、時空『世界』の歴史性』という章で論じられている。 ワイルは『リーマン面の理念』の初版(一九一三年)の序文で次のように言う。(5) 厳密さに関する現代の厳しい要求に従おうとすれば、リーマン面の理念もまたその表現のために多量の抽象的な微妙な概念と思考とを要求する。しかしながら、この論理の糸によってきめ細かく織り上げられた全体系が、ここでは根底において決定的なものではないことを認識するには、多少とも鋭い洞察を加えれば足りる。それは単なる網であり、この網を使って我々は本質において単純であり偉大であり崇高である本来の理念を、プラトンの表現によれば場所なき場所(topos atopos)のなかから、海のなかから真珠を採るように、我々の悟性界の表面に取り出すのである。しかしながら、この精緻なそして煩瑣な諸概念の編み物に包まれた核心ーこれこそ理論の生命、真の内容、内的な価値を作るものであるーをとらえるためには、書物は(また教師でさえも)ただ貧弱な暗示を与えるに過ぎない。ここでは各個人が毎回あらたに、みずから理解を求めて格闘しなければならない。・・・ 彼は、この書物の最後の章を『一意化の理論(Uniformisierungstheorie)』にあてることを述べた後、次のように言うことを憚らなかった。(5) 我々は、ここに全ての地上的な個々の実在から解脱した神の姿−このような比喩をもちいてよいならばーを見る。二次元の非ユークリッド的な結晶の象徴においてリーマン面は、すべて偶然や光を曇らせるものから、でき得る限り解放された、純粋な真の姿を現すのである。 一九一三年の時点での数学者ワイルにとって、リーマン面の理念(イデア)は論理の糸に細かく編み上げられた体系の網によって、『場所なき場所』から取り出されるものであった。ここでは、『イデアの場所(叡知的世界)』をあらわす新プラトン主義の用語にほかならぬ『場所なき場所』という語が使われているが、この場所で働く『イデアを見る』直観こそワイルが数学的理論の真の生命と呼んだものである。田辺が『数理の歴史主義展開』のなかで、『場所的直観説』として特徴づけているものは、直接には西田哲学を基盤とすると末綱恕一の数学論にむけられているが、一般的には純粋数学におけるプラトニズムの伝統を指していることに注意しなければならない。それは比論的に言えば、西田哲学の一般者の自覚的体系の最後の段階で語られる叡知的世界に、また『懴悔道としての哲学』の第五章で言及されている『智者賢者の自由』にもとづく『自力的神人合一の直観』に対応するであろう。懴悔道では、このような賢者の立場を自己自身が決してとり得ぬという実存的な愚者の自覚の立場が強調されていたが、その立場から翻って賢者の立場を批判する論拠、すなわち懴悔道と絶対批判とを媒介するものは徹底した歴史主義に求められていた。ところで、『数理の歴史主義展開』において問題となっているのは、数学的プラトニズムが維持できないにもかかわらず、さりとても純然たる経験主義的な直観主義にも、また数学的対象の実在性をすべて括弧に入れて無矛盾な公理体系の提示をもって満足する形式主義も、全て哲学的立場としては挫折したという二律背反的な状況である。 ここでワイル自身が、ゲーデル以後の数学の発達を考慮して大幅に改訂補足した『数学と自然科学の哲学』のなかでは、次のような叡知的世界の実在性にたいして懐疑的な立場に後退していることが注目されよう。(6) 単に現象論的な観点からは理解しがたい全体性のほうへと駆り立てる理論的欲求が我々の中に生きていることは否定できない。まさに数学こそこれを特別の明瞭さをもって示す。しかしそれはまた、その欲求は一つの条件の下にだけ、すなわち我々が象徴(記号)をもって満足し、超越的なものがいつか我々の直観の光圏中に落ちることを期待するという神秘的な過誤を断念するという条件の下でのみ満たされ得ることを教えるであろう。 この著作におけるワイルは、数学を『無限の科学』として規定したあとで、『もしカントの言葉に従って、理念をすべての経験を超越し全体性の意味において具体的なものを補う理性概念と解するならば、無限にゆだねられている役目は単に理想概念としてのそれである』というヒルベルトの言葉を引用したあとで、数学的世界の記号的構成という行為の本質的に歴史的な性格を自覚することの必要性を示唆して次のように言っている。 この問題は、おそらく私自身の存在が欠くことの出来ない部分ではあるが自律的部分ではないところの精神の本質的に歴史的な本性を指摘することによってのみ答えられるだろう。それは光と闇、偶然と必然、自由である。そしてなんらかの究極的な形におけるこの世界の記号的構成がそれから引き離されうるというようなことはおよそ期待され得ない。 読者はここに、田辺の言う数理の歴史主義展開が、決して彼の言う『懴悔道(超理観)の歴史主義』を数学に外部から押し付けたものではなく、現実の数学の歴史的展開に即したものでであったことを確認することができるだろう。それは数学の歴史的考察の意味を強調する数学史家ならびに数学基礎論の流れを先取りした議論なのである。例えば、M.クリーネが一九八〇年に出版した『数学:確実性の喪失』という著作は、数学そのものを基礎論の挫折という歴史的展開において捕らえたものであるし、(7)P.J.デービスとR.ヘルシュが一九八二年に書いた『数学的経験』は文字どおり経験主義の立場から数学の歴史を述べたものである。(8)カントや論理実証主義者がしたように、数学を没歴史的な体系として構想することは、数学がたえず発展する学問であることを説明することができない。簡単な例を挙げるならば、ゼロという記号をもたず、また一を数とは見なさなかったギリシャ人の数の概念と、ゼロや負の数をも整数とみなす現代人の数の概念とを同一視することはできないであろう。現代数学の体系の基礎をなし、没歴史的な概念構成の典型と見られている集合の概念自体が、数学の歴史の中で変遷している。たとえば『一者としての多者』という語で集合とプラトン的形相との類縁性を強調したカントールの集合の概念は、空集合を集合とは認めぬものであった。これに対して、現代数学で標準的なものとなったツェルメロ・フラエンケルの公理的集合論では、空集合から他の全ての集合が構成され、個物の存在することさえ集合論にとって必要不可欠の前提としていない。それゆえ我々はカントールの集合概念と公理的集合論の集合概念とを同じものと見なすことができないであろう。その概念は、没歴史的な自己同一性によって特徴づけられるものではなく、二律背反的矛盾を発条として歴史とともに発展して行くものなのである。 言語(記号)的構成を必要不可欠のものとする数学的概念は、このように数学理論の歴史的発展段階に拘束されるが、それとともに、それらの概念に内容を与える数学的直観もまた、媒介抜きの直接性と不変性をもつということはできなくなる。周知のごとく、カントは数学の命題がアプリオリな総合判断であることの根拠を、われわれの空間直観と時間直観のもつ形式にもとめた。このような直観主義に基づく数学論は、有限数の算術の命題とユークリッド幾何学の命題が必然的な真理であることを事実問題として認めたうえでその権利根拠を問うたものであったから、超限数の算術や非ユークリッドの可能性を問題とする現代数学の哲学的基礎をめぐる問題に答え得るものではないことも認めねばなるまい。すなわち、数学的直観そのものが数学的理論の歴史的発展段階に制約されているのである。 末綱恕一の数理哲学にたいする田辺元の反論は、西田哲学に影響された末綱恕一の行為的直観の説の非歴史的性格に向けられている。末綱は『数学の基礎』の序文で彼の数学観を次のように要約する。(9) 直観的内容をもつ勝義の数学といふものは、ただ有限個のものばかりでなく、ある種の無限者をも包含するのであって、事実普通の解析学(微分積分学)の基礎になるものは、直観的内容をもつものとして基礎づけられることを明らかにするのが、本書の目的とする所である。私は、自然数全体と直線的連続体とを全数学を担う二つの支柱と見なし、これから行為的直観的に我々が把握し得るものを、勝義における数学的存在と考える。 末綱は『無数のものがあってそれらが一つの纏まった全体をなすことが確認できない場合には、排中律は実際意味をもたない』ことを認める点において、ブラウアーの直観主義の主張の部分的正当性を認めるが、そこで言われている直観が、『有限の行為による構成をあまりに重大視するために、無数のものの集まりについての命題に関して排中律を全面的に拒否する』ことになり、その結果帰謬法も用いられなくなった欠陥を除くために、時間直観と空間直観との『矛盾的自己同一』としての行為的直観によって無限のものの集まりが一つのものとして把握されることをもって、無限集合に排中律の適用を許容することを可能にするような拡大された意味における直観主義の立場をとった。 田辺はこのような末綱の説が『形成行為を単に直接的形成に限らず、形成行為の目標を内に含ましめることによってその形成の範囲を拡大し、直観主義が有限主義に傾くのに対し、超限集合にまで構成を及ぼしつつ、しかも思惟の主観的理念に止まらず、之を時間空間の直観にゆだねられたことは、直観主義と公理主義との間に立って両者を補完総合するものとして特筆に値する』ことを認めつつ、『構成行為の目的として超越的目標に止まるものを、直観の内部に取り入れそれを直観に内在化せしめることが、直観の立場から許されるだろうか』という疑問を提示する。『西田先生の教えを仰ぐ』以来、終始一貫して変わらなかったこの疑問を、田辺はここでも繰り返す。(TW12;226) もしそれ(行為的直観)が、行為の達成すべからざる目標を超越的イデーの立場から引き降ろして現実に内在化せしめることを意味するならば、それこそまさに独断的形而上学の常套であって、いはゆる神学の世俗化にほかなるまい。元来、無限追求の理想を表すイデーの達成実現といふことは、実はイデーのイデーたるゆゑんに反する不当の要求である。・・・ それ(イデー)を飽くまでレヤールなものとして直観に内在するといはれるならば、それはただ時間的行為を空間的全体に内在化せしめる行為的直観の主張に拠るほかない。これが西田哲学の立場であるからには、末綱博士もここに立脚せられるのであろう。しかし、これは私の強く反対せざるを得ないところである。その理由は、このように時間空間統一の直観を、西田哲学の主張するごとく場所的とし、空間の全体的直観に重点を置いて、時間の固有構造である過去未来間の対立抗争を並列的に一様化し、現在のもつ飜転循環的渦動性を抽象して、点の直接的連続(実は単なる稠密)系列に化するならば、それは畢竟時間を空間のうちに解消し、前者の立体的弁証法を後者の平面的同一性に化するものであるからである。それは、行為の時間即空間といふべき転換的動性あるいは三一性を意味するのではなく、行為的現在の瞬間的渦流ならぬ過去の均衡的一様性とそれの投影としての未来の均衡的一様性とをもって時間を空間化するものにほかならない。そこには危機断層、革新顛倒をもってなる歴史性はないのである。 ここで展開された西田哲学の行為的直観にたいする田辺の解釈と批判が西田自身のコンテキストに照らして公平なものであるかどうかは問題がないわけではない。西田自身は、円環的限定即直線的限定、直線的限定即円環的限定なることを説き、空間と時間との等根源性を主張していたから、決して田辺が言うように時間的行為を空間全体に内在化させる意図はもっていなかったからである。しかし、田辺から見れば、空間と等根源的なものとして見られた時間、即ち円環的限定と相即する直線的限定として捕らえられた時間は、空間化された時間であり、『危機断層、革新顛倒をもってなる歴史性』を撥無するものにほかならないのである。彼にとっては『行為的直観の具体的真実は歴史的行為の自覚である』という立場から、『場所的空間的契機の優位を清算して、真に行為的時間的契機の優越を認め具体性を確保すること』が課題であった。 田辺が言う『行為的時間的契機の優越』というモチーフこそ、田辺哲学と西田哲学との共通項とも言うべき『絶対無』に対する両者のアプローチの相違の根本にあるものである。絶対無を『場所』として捕らえる西田哲学に避け難い『空間的契機』の批判が、『集合論から位相学へ』という数理の歴史主義展開という文脈において遂行された。そこでは、行為的直観とは無限集合の諸要素の時間的構成と空間的直観との矛盾的自己同一において成り立つという末綱恕一の数理哲学が『直観そのものの歴史性』を考慮していないことを理由に『場所的直観説の不備』として批判されたのである。 無限集合論から位相学への数学の歴史主義展開という特殊な文脈で、このように西田が最も普遍的な哲学的論理として提示した『場所の論理』の批判を遂行するということは、そもそも如何なる意味を持ち、またそれはどこまで正当化されるであろうか。我々は、次の節で、西田の場所の論理を、無限集合論によって再構成した末木剛博氏の西田哲学研究を手掛かりにして、この問題を考察しよう。そして、田辺の批判は、少なくとも無限集合論として再構成されることを許すような『場所の論理』、すなわち部分に包越的全体が内在することを可能にするという重層的内在論の論理の批判としては有効であることを示そう。
三 場所の論理と無限集合論
カントールに始まりボルツァーノやデーデキンドによって明確に定式化された積極的無限論の特徴は、要素の個数を繼時的総合という時間直観の働きによって数え尽くす事ができないという基本的な特徴をもつ無限集合がもし何らかの意味で実在すると仮定するならば、そのような無限集合は全体と一対一の対応する真部分集合をもつという逆説的な状況を集合論の積極的な原理に転換するところにあった。そこでは、無限集合は『全体と一対一に余すところなく対応する部分を持つ集合』として肯定的に定義され、有限集合は『全体と一対一に余すところなく対応する部分を持たない集合』として否定的に定義される。このような積極的無限論は、米国の新ヘーゲル主義の哲学者ロイスの言う『自己代表的体系』のなかで採用され、『自己が自己において自己を写す』自覚の論理構造をいかに定式化するかを模索していた西田に影響したことは周知の事実である。 一九八七年に完結した末木剛博の四巻に及ぶ西田哲学の体系的研究は、純粋経験論から絶対弁証法にいたるまでの西田哲学の再構成を試みたものであるが、その特色は無限集合論による自覚の論理構造の再構成という所にある。(10)この再構成のポイントは末木は『西田理解の方法の矛盾概念の解釈』という論文の中で、次のような図式に要約している。(11) 自覚とは、『自己が自己において自己を見る』(NW5:387,427,453etc)ことであり、また包摂判断を手本として『包むものと包まれるものとが同一となること』(NW5;425)と規定され、また『場所』なる概念を用いて『場所と「於いてあるもの」とが同一といふこと』(NW5;425)とも言われ、集合論の概念を用いて『全体と部分と同一といふこと』(NW5;425)と定義される。(12)この最後の定義を形式的に表現すれば、一集合Mの部分集合 がもとの集合(全体)Mと要素が一対一に対応するのが『全体と部分と同一』ということである。それはラッセルの用語で言えば『相似』ということであり、現在の集合論で言えば『全単射』ということである。ここではラッセルの用語を借りることとする。すると自覚とは全体Mがその部分 と相似になることである。いま、 『AとBとの相似』を『A B』と記せば、『自覚』とは (Mi⊂M)・(Mi〜M) ・・・・・・・ (1) という構造のことである。・・・・・・・『全体Mが自己と相似な(真)部分 をもつ』時、『Mは自覚する』というのである。−−−この自覚の定義は集合Mの無限性の定義にほかならない。集合Mが無限であるとは、Mが自己に相似な真部分集合を含むことであるという定義は、ボルツァノによって打ち立てられた有名な定義である。そしてそれはまさに上記の(1)式に他ならない。従って、西田の言う自覚とは無限なるものの自己写像ということである。 この図式をもとにして、末木は西田哲学の自覚の体系を三段階に区分し、それを西田哲学の発展の三期に対応させている。 第一段階−自覚の直接態−個人意識の自覚−主語面の自覚−心理学的自覚−(1)式の部分 (これが『善の研究』と『思索と体験』を中心とする西田哲学の初期の時代に対応する) 第二段階−自覚の間接態−超個人的場所の自覚−超越的述語面の自覚−先験論的自覚−(1)式の全体M (これが『自覚における直観と反省』から『哲学の根本問題』までの西田哲学の中期の時代に対応する) 第三段階−自覚の綜合態−個人意識と超越的場所との綜合の自覚−論理学的(絶対辯證法的)自覚−(1)式の包摂関係を中心とせる総体(これが『哲学の根本問題続編』から遺著となった『哲学論文集第七』までの西田哲学の後期の時代に対応する) 西田哲学の発展をこのように三段階に分かつことは、従来の西田哲学解釈とそれほど隔たるものではないが、これを無限集合論的図式(1)と関連づけたところに、末木の著作の新しさがあると言えよう。同氏はこの関連づけによって、難解をもってなる後期西田哲学の諸概念を無限集合論による再構成によって解明しようとしている。晩年の西田哲学の根源語である『矛盾的自己同一』は末木によって、三種の無矛盾的な『矛盾的自己同一』に分類される。 すべてを包む絶対的全体Mは自己矛盾を生じて絶対無となる。その絶対無のなかで自己の内に自己を映し、自己相似的自己写像によって『世界の自覚』が成立する。−−これが第一の『全体の矛盾的自己同一』である。 。次にこの絶対無Mのなかの世界 が主観Eと客観Aとの直積として特徴づけられる。それはすべてを主観と客観との相補的結合(不両立的相依関係)として規定する。−−これが第二の『両極の矛盾的自己同一』である。(主観・客観のほかに時間・空間などの両極の矛盾的自己同一が重層的に成立する。) 。次に主観・客観の直積集合としての世界 のなかの個物bは他の個物aから作られたものであると共に、他の個物cを作るものであり、したがって一つのものが『作られたもの』と『作るもの』の相反する二性格を兼ねるので、これも『矛盾的自己同一』と言われる。−−これが第三の『作られたもの』と『作るもの』との『矛盾的自己同一』である。 このようにして三種の無矛盾的な『矛盾的自己同一』は重層的に総合されて一つの自覚の体系をなす。 上に要約された末木の西田哲学再構成がはたしてどこまでテキストに忠実であるかという解釈上の問題については様々な評価が可能であると思う。我々がここで論じているのは、あくまでも末木によって定式化された形態における『自覚の論理』であって、本来の西田哲学の論理ではないという異論が当然あるであろう。筆者自身も、末木の再構成に全面的に賛成している訳ではないし、このように再構成された場所の論理が、西田自身の苦渋に満ちたテキストを読むときに誰しもが感じるダイナミズムと奥行きの深さを反映していないことは認めるものである。しかし、ここで筆者が言いたいのは、無限集合論と場所の論理との間には、ある逆説的事態が共通しており、このアポリヤに着眼することこそ田辺が終生批判し続けたものが何であったかを明らかにするということなのである。その限りで末木による再構成は、『場所的』自覚の論理の一つの問題的な側面を提示することには成功しているように思われる。集合論と場所的自覚の論理との間には、構造上の類似があることも注意すべきであろう。集合論は、 単なる(一階の)述語論理で媒介抜きで結合されている主語(個別者)と述語(普遍者)とを、繋辞(ε)を使って明示的に媒介し統合する点において、西田の言う主語の論理(実体の論理)と述語の論理(場所の論理)を媒介総合する繋辞の論理(場所的自覚の論理)と同じ構造をもっているのである。 また、末木の言う『両極の矛盾的自己同一』や『作るものと作られるものとの矛盾的自己同一』を集合の直積を使って『無矛盾的に』定式化することも、順序対を考えることによって、問題となっている集合のレベルを上げることによって矛盾を解消する道を示したものであり、このような相対的な矛盾的自己同一が集合論によって『無矛盾的』に再構成されるという末木の主張も基本的に評価できるものである。 さて、末木の再構成が明らかとした西田の場所的自覚の論理の構造における最大の問題点は何であろうか。それは、相対的な矛盾的自己同一から区別された絶対矛盾的自己同一、すなわち末木の言う『全体の矛盾的自己同一』の論理構造にほかならない。ここでは絶対無を『ありとあらゆるもの(有)を要素としてもつ全体』と見なす解釈が問題となるのである。このような全体は末木によって『自己矛盾的全体』とか『一切を包越する絶対類』とも呼ばれているが、そのような絶対的全体の自己限定について語ることが果たして意味をもつであろうか。 無限集合論においては、このような絶対的な全体を一つの集合としてたてることから二律背反的状況が生じる。その理由は、どの与えられた集合よりも濃度の大きな集合、すなわちその集合のすべての部分集合からなる集合(超越的述語面を表す場所に対応する)が存在するが、他方において、あらゆる集合の集合は、それ自身一つの集合として、最大の超限基数をもたねばならないからである。B・ラッセルが有名な『集合論の逆理』を発見したのもまた、この最大の超限基数は存在しないというカントールの証明を吟味していたときのことであった。彼はこの間の事情を次のように回想している。(13) 最大の超限基数が存在しないというカントールの証明を吟味することによって、私はこの矛盾(集合論の逆理)に出会った。私は、無邪気に、世界にあるすべてのものの数は最大の数でなければならぬと信じ、カントールの証明をこの数に適用して、どういう結果が出てくるかを見ようとした。・・・カントールの議論(羃集合の濃度はもとの集合よりも大きいという議論)を適用していって、私は『自己自身の要素でないところの諸集合』を考えるに至ったが、これらの諸集合もまた一つの集合を形作ると思われた。そこで私は、この集合がそれ自身の要素であるかないかと考えた。もしそれがそれ自身の要素であるならば、それは、その集合の定義をなしている特性、すなわちそれ自身の要素ではないという特性をもたざるを得ない。逆に、もし、それがそれ自身の要素でないとするなら、それはその集合の定義をなしている特性をもってはならないのだから、それはそれ自身の要素でなければならない。かくて、二つの可能性のいずれをとっても、それは自身の反対に導き、したがって矛盾に陥るということになる。 無限集合論で二律背反的矛盾を生じるのは、否定的な自己述語によって一つの全体が定義されると見なすことからである。この逆説は、自己述語的な絶対的全体において、自己述語的でない要素の全体について語ることが出来ないことに由来するのである。この事情を西田哲学の固有の用語法に戻して言えば、絶対無の場所の自己限定を語ること、すなわち絶対無の場所から諸々の相対的な有の場所を概念的に限定することは不可能なのである。 田辺は『西田先生の教えを仰ぐ』のなかで既に、場所の論理と集合論との結び付きに注目して次のように述べている。(TW4:313-314) 宗教としては絶対無の自覚として立場なき立場といはれるものも、それが哲学軆系の終局原理を與ふる立場となるとき、却ってそれ以下の被限定的抽象的なる立場を、その限定として理解せしむべき一の立場となり、決して立場無き立場に止まることができないのではないか。・・・もし哲学がこの宗教的立場を自己の立場としようとするならば、それは必然的に自己廃棄の運命に陥らなければならぬ。恰も『凡ての集合の集合』といふ集合論の逆説に見るごとき、自己の絶対化が必然に自己を相対化するという矛盾が口を開く。・・・勿論哲学はそれの本質上、何らの意味においても絶対的なるものを否定せんとする所謂相対主義に立つことは出来ぬ。それこそ明白なる哲学の否定である。しかし、単に求められたものとして絶対者を極限点とするのは、與へられたるものとしての絶対者を立てて、これをその体系の根底とするのとは異なる。ここに哲学が常に相対に即しながら絶対を求めんとする愛知的動性たる所以が存する。 『ヘーゲル哲学と弁証法』(一九三二年)以後、田辺もまた『絶対無』という語を頻繁に使うようになるが、その場合でもそれは決して自己同一なものとして語られることはなかった。すなわち、彼は絶対無の場所そのものの自己同一は決して認めず、それを観想的(思弁的)哲学の原理とする錯誤を退け、その代わりに『危機断層、革新顛倒をもってなる歴史性』として実践的に自覚されるほかない絶対的な転換の原理としたのである。 このように、田辺は無限集合論の逆理の発見以後の数理の歴史主義展開という特殊な文脈で西田の言う場所の論理の批判を遂行したが、この批判は単に数理哲学に止まるものではなく、更に物理的世界の歴史性という現代宇宙論の中心的な問題圏域に迫る射程をももっていた。相対性理論と量子力学との統合という理論物理学の最先端に位置する問題をもっとも重要な哲学的問題の一つとして捕らえていた彼の科学哲学上の諸論文を手掛かりにして、我々自身を含む全体としての宇宙の歴史性にかんする現代物理学の様々な議論を次に考察することにしよう。
四 『時空』世界の歴史性
田辺が一九三二年に書いた『図式《時間》から図式《世界》へ』という論文は、後に『種の論理と世界図式』において体系化されるいわゆる『種の論理』の出発点をなす論文であるが、ここに既に行為的時間的な契機を優越させた上で、それを空間的契機に否定的に媒介させた『図式《世界》』の構想が提示されている。 この論文は、在外研究のためドイツのフライブルグ大学のフッサールのもとに留学していた田辺に強い印象をあたえたM.ハイデッガーの『カントと形而上学の問題』におけるカント解釈に触発されたものであった。それは、晩年に至るまで続いた田辺とハイデッガー哲学との対決の発端をなす諸論文の一つであったが、それと同時に、二〇世紀の理論物理学の革命的な理論である相対性理論の時間概念と空間概念の統合をいかに理解するかという、科学哲学の中心的課題をも射程に収めるものであった。実存哲学と科学哲学は、西欧の現代哲学の展開においては互いに交差することの少なかった二つの大きな思潮であったが、この二つの流れを媒介することを可能ならしめる構想を含む点において、田辺と同じく数理哲学と理論物理の問題の考察から出発して宗教哲学を論じた米国の哲学者ホワイトヘッドの『過程と実在』の哲学とも呼応するものであった。 ここで言う図式『世界』とは、『ニュートン物理学の世界像に相當して思惟せられたカントの先験的分析論が、今や相対性理論の世界像に相当するごとく具体化せられることを必要とする』という問題意識から提唱されたものであるが、それは『哲学が存在の一層深き根底に還り、一層具体的なる理性の自覚を遂げるために、物理学の歴史的進歩を媒介とする』ことに外ならなかった。田辺はハイデッガーのカント解釈を、『従来の俗見的非本来的時間に対して、本来的に自己を形成する時間の未来を直接媒介とする自発的構造を自覚存在論的に闡明した』ことを重要な貢献として認めつつ、『時間は意識の構造に属するのみで世界存在に属するという意味をもっていない』ことを理由に退ける。そして、空間性によって否定的に媒介された時間性を図式『世界』と呼び、人間の外にあって人間を限定し人間を包むものであるとともに、人間によって造られ人間によって限定される時空『世界』が歴史をもつことが強調された。 前にも述べたとおり、自我から世界を考えるのではなく、世界の自覚として自我を考えること、その世界は歴史的世界であることなどは後期の西田哲学と田辺哲学に共通する課題であった。西田においては過程的な弁証法を包摂する場所的弁証法において歴史的世界が考えられ、根源的空間性とも言うべき『場所』において世界と自我の成立が語られたが、これに対して、田辺においては『場所の論理』はいまだ時間性を捨象する点において具体的なものとなっておらず、絶対媒介をとく『種の論理』と根源的な時間性の優位において成り立つ世界図式、即ち物理的世界の歴史性を表す世界図式によって始めて具体化されるのである。 この意味での世界の歴史性こそ、懴悔道以後の田辺の理論物理学の哲学的反省の根本にある思想であった。例えば、『局所的微視的』という科学哲学の論文では、絶対空間を温存して、ただそこにおける局所時の想定において実験事実を説明しようとしたローレンツ理論とアインシュタインの相対性理論の違いが『時間が空間によって局所化せられる局所時を顛倒して、逆に空間を局所化する主体の行為的時間が真の具体的局所時として登場する』ことに求められている。田辺は、この具体的局所(世界点)を『即今(Hier-Jetzt)』と呼び、そこにおいて自覚される世界を『場所的に固定したものとせず、どこまでも時間的に動くもの』と解したうえで、『行為的直観説は、単にローレンツ的局所時に比すべき客観主義の表現的立場であって、どこまでも空間的場所の形成に止まる』と述べたうえで、西田哲学の『行為的直観』の空間性と田辺自身の言う『行為的自覚』の時間性とを対比した後で、『もし行為を包む直観が空間的場所的直観として成立するならば、それは却って行為を観想に従属せしめ、行為に固有な錯誤の危険と懴悔的自己犠牲とを見失わせる』と述べている。 田辺が自己の哲学的立場を西田から区別するときに、『局所的/全体的』、ないし『微分的/積分的』という対概念を頻繁に使用したことはよく知られている。 とくに『微分的/積分的』という数学的用語は、H.コーヘンによって哲学の術語に転用された例はあるにせよ、哲学上の用語として使われることは少ないから、その意味を適切に理解することが田辺哲学を理解する鍵の一つであることは間違いはない。この数学的用語の意味をよりよく理解するために、ここでは一九世紀の解析力学における重要な発見に言及することにしよう。 解析力学においては、物理的な系の状態は位相空間によって表現される。この空間における系の軌跡を確定することが、その系についての全体的(積分的)認識を得ることと同義である。ところで、物理学の基本法則は微分方程式で書かれるのが通例である。それは地上に落ちるリンゴの運動にも、太陽を回る地球の運動にも当てはまるし、膨大な数の微視的な気体分子の系の運動にも、銀河を形成する星の集団の運動にも当てはまる。そして、数学的にはこの微分方程式は、適切な初期条件、境界条件のもとでただ一つの解をもつことが保証されている。そのために、古典物理学の成り立つ系は決定論的であるという意味で、根本的に非歴史的であるという特徴をもっていると長い間考えられていた。しかしながら、数学的決定論は決して、われわれがそのような(存在のみが保証された)解を積分によって具体的に認識出来るということを意味しはしない。微分方程式によって記述される物理系が、積分可能であるとは限らないのである。このことの発見は、まずハインリヒ・ブルンスが三体問題が積分可能でないことを最初に証明し、ポアンカレがその証明を一般化したとき(1889)、当時の科学界は大きな衝撃を受けたのである。(14)例えば、太陽と地球と月からなる系の遠い将来の運命を現在我々が認識することは原理的に不可能なのである。これに対して、二体問題は積分可能であるから、我々は、三体問題は二体問題の単純な組み合わせに還元されない新しい質をもっていると言わなければならないであろう。田辺哲学の用語を物理学に比論的に転用するならば、三つの天体からなるシステムは『社会的存在』に固有の予測不可能性をもっているのである。 要するに、古典物理学における決定論と言われてきたものの実態は、言わば全知の神のごとき存在の目から見た決定論であって、我々人間が未来を予知できるという意味での決定論ではなかったのである。 特殊相対性理論においては、さらに異なった意味での予測不可能性が生じる。周知のごとくこの理論では絶対時間の存在が否定され、同時性が因果的独立性によって置き換えられる。ある一つの事象の因果的未来が何であるかは、その因果的過去に属するすべての事象だけでは決定されない。それはその事象と共時的な全ての事象に影響されるが、共時的な事象は因果的に独立であるから、我々は原理的に現在認識出来ぬ事象が我々の未来に影響を及ぼすことを認めなければならないのである。言い換えれば、我々が観察し得る時空上の局所的な観点から認識し得る過去のすべてを知っていたとしても、我々は未来を知ることは原理的に出来ないのである。(15) 量子力学では、ハイゼンベルグの不確定性原理によって、粒子の位置と運動量を同時に我々が観測によって確定することは出来ない。このことは、系の状態を位相空間の一つの点として確定することが原理的に不可能となることを意味している。量子力学が対象とする微視的領域では、たとえ神のごとく全知の存在があったとしても、彼が対象系と関わりをもつ限り、未来を一義的に予測することはできなくなる。量子力学が問題としているのは、同一の原因は同一の結果を生むという因果律が適用されない領域なのである。 現代物理学の最大の理論的課題は、田辺が晩年の科学哲学的著作の中で予見したように、相対性理論と量子力学との統合である。我々は、ビッグバーン宇宙論の発見という、田辺自身は知ることのなかった物理学の発達そのものを考慮しなければならない。全体としての宇宙の起源を問うというきわめて形而上学的な問を、自然科学自体が自然科学の内部から問うている現代の状況そのものが、時空『世界』の歴史性という基本テーゼによって田辺が表現した事態を支持しているといってよかろう。田辺の言う『相対性理論の弁証法』は、全体としての宇宙が不可逆な歴史をもつという今世紀の物理学の重大な発見を哲学的に反省するものにとって重要な示唆を与えるものであることは間違いない。時空的な世界の総体を非歴史的な全体として捕らえ、そこに於いて個物的限定を考えることは、現代物理学のこの文脈においては意味をなさない。『数理の歴史主義展開』は、『物理の歴史主義展開』ともいうべきものにおいて具体化されたが、これこそ、田辺以後の現実の物理学の歴史の示すところにほかならない。 存在するものの総体としての宇宙は、非歴史的に与えられた全体として完結しているものではなく、有限の歴史をもち、その地平は拡大しつつある。『無』からの創造が、相対論と量子論との部分的統合によって物理学の内部で語り得るようになった現在において、物理学自身が曾ては神学的思弁の領域に属していた事柄を主題としている(16)。非歴史的な『存在の比論』だけではなく、存在の根底にある『無』からの創造を説く現代物理学と宗教との対話が成り立つためには、田辺が構想したような『宗教哲学に通底する科学哲学』、即ち、根源的な時間性において宇宙を考える『無の比論』にもとづく科学哲学が必要不可欠のものとなるであろう。
注
(2)ハンス・ライヘンバッハ、『科学哲学の形成』、市井三郎訳、みすず書房(1954) (3)田辺元全集(TWと略記)、筑摩書房(1963) (4)西谷啓治著作集(NWと略記)、創文社(1986) (5) Herman Weyl, Die Idee der Riemannschen Fl che B.G.Teubner,Stuttgart,1913 (邦訳)『リーマン面』(田村二郎訳)岩波書店(1974) (6) Herman Weyl, Philosophy of Mathematics and Natural Science, Princeton University Press(1949) (邦訳) 『数学と自然科学の哲学』(菅原正夫、下村寅太郎、森繁雄訳)、岩波書店(1959) (7) Morris Kline, Mathematics: The Loss of Certainty, Oxford University Press(1980) (8) Philip J.Davis, & Reuben Hersh、 The Mathematical Experience、 Birkh user,Boston (1982) (邦訳)『数学的経験』(柴垣和三雄他訳)森北出版(1986) (9)末綱恕一、『数学の基礎』、岩波書店(1952) (10)末木剛博、『西田幾多郎−その哲学体系』 、春秋社(1988) (11) 末木剛博、『西田理解の方法と矛盾概念の解釈』、上田閑照編『西田哲学への問い』所収、 (12) 西田幾多郎全集(NWと略記)岩波書店(1978) (13) Bertrand Russell, My Philosphical Development, George Allen & Unwin, London (1959)邦訳『私の哲学の発展』(野田又夫訳)、みすず書房(1960)、p.96 (14) Iliya Prigogine,From Being to Becoming、W.H.Freeman and Company, New York(1980) p.32. (15) Karl Popper, The Open Universe: An Argument for Indeterminism, Huchinson (16)A.Vilenkin,“Creation of Universes from Nothing" Physics Letters,117B:25-8
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