連歌と俳諧 

桃李歌壇通信

講演会記録

講演者: 田中裕 

エラノス学会での講演

主題:沈黙の声(連歌の場所論)

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その2

哲学者の西田幾多郎は、「働くものから見るもの」という著書の序文で「形相を有となし形成を善と為す泰西文化の絢爛たる発展には尚ぶべきもの、学ぶべきもの許多なるは云うまでもないが、幾千年来我らの祖先を育み来たった東洋文化の根底には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが潜んでいるのではなかろうか」と述べています。 

上田閑照先生(京都大学名誉教授で西田の孫弟子にあたります)はその御著書「場所」のなかで、このような西田哲学の基本的な考え方を敷衍して、実に独創的な「連句論」を展開しています。

五年ほど前に米国の宗教関係の学会で、たまたま上田先生と同じシンポジウムに同席する機会に恵まれ、先生がこの連句論を、日本語の著書が出るよりも先に英語でご発表になったのを聞きました。 西田哲学は米国の学者にも難解だったようですが、上田先生の議論は実に明快でした。

先生は、西田の云う「声なきものの声」を、まず俳句の切れ字を例にとって、次に、連句の「句の間」にある連続と断絶(親句と疎句)を例にとって説明され、それが多大の感銘を当地の学者に与えたのを今でもまざまざと思い出します。

じつは、私が連句に関心を持ち始めましたのも、同先生のこの議論に触発されたことがきっかけでした。

「純粋経験」という語は、アメリカで根源的経験論をとなえたウィリアム・ジェームズに由来します。 経験論とは、英語でEmpiricismと云いますが、この言葉はギリシャ語のエンペイリアに由来し、アリストテレスの形而上学の最初の章では、真の意味での知恵の探求の過程の最初に位置づけられています。

エンペイリアは感覚的なデータの受容を意味し、特殊な事物との接触させてくれますが、普遍的な認識の素材を与えるだけですので、技術(テクネー)や知恵(ソフィア)の下に置かれました。この意味での経験の概念では、知的なものが一切排除されており、経験の素材の受容という受け身の働きだけが強調されています。

これは、近代の英国経験論でも、カントの批判哲学でも基本的には同様であって、特にカントは、はっきりと感性の受動性と悟性の能動性を対比させ、感覚的経験で与えられた素材を悟性が加工するという立場で認識の成立を説明しました。さらに云うと、感覚的経験を受け取る主体と、外的経験の世界はふたつに分けられており、外部世界が我々の感性を触発することから経験が生じるという構図が残存していること、「感性と悟性の共通の根」と称するものが明らかになっていない事がカント哲学の問題点になっているわけであります。

このように理性から区別され、主客分離を前提とした「経験」は純粋経験ではありません。「個人あって、経験あるにあらず、経験あって個人がある」とは若き日の西田の言葉ですが、知情意のすべてがそこから生じるだけでなく、経験する主体自身がそこから生まれるような経験は、あまりにも我々の身近にあるが故に、我々の言語の網の目をくぐり抜けてしまいます。ある意味で、純粋経験は「言語から出る」心構えがないととらえることができません。しかし、西田哲学の初心とも云うべき「善の研究」とは、ひとたび言語を超越した純粋経験の立場にたった著者が、、そこから「言語」に出て、あらたに語り始めて成立した著作でした。

もちろんこのような語りを哲学で行うことには非常なる労苦を要したわけで、西田哲学が難解である理由もそこにあるわけですが、西田にとって大きな転機となったのが、先ほど引用しました、「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」立場、働くものの根底にあって、それを観る「場所」の立場の成立でした。

西田哲学については、今年の日本哲学会のシンポジウムで私もパネリストをつとめますが、今の日本の哲学者の大半は西欧の現代哲学の流行を追っているだけで、自分たちの先人の仕事を余り読まぬ困った習慣があります。外部から批判する前に、一度西田の純粋経験の場所の自覚の立場に立って観る事が必要ですが、そのためには、連歌俳諧の伝統に触れることが、最も近づきやすい道ではないかと思います。

(次回に続く)

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