桃李歌壇

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18. こころ

風やまず木々は光の触手もてはふるる我れを誘(いざな)いに来る

君のためならざりしことすまじきと文を読みては考えている

ひとり道ゆくがよからん人は誰もさびしきものを胸にひめつつ


 定期試験の監督をしながら椅子に座っていると、窓の外で風に揺れる木が緑の
光を投げてよこす、ゆったりと脈打つように。もう何日も嘘のように涼しい日が
続いているが、この緑の光は夏の到来が間近いことを感じさせる。我にかえって
自分が試験監督であることを思い出す。鉛筆の音が心地よい。私は夢見るような
心持ちになって、もう一度窓の外の木に目をこらす。ふわっと抱かれるような無
重力を魂に感じて、そのまま身を委ねたくなる。間断なく鉛筆の音がする。もう
監督なんかどうでもよくなってしまって、うっとりした目で雲の奥を見つめてい
たりする。そういえば、子供の頃、地面にごろっと寝転がって、雲の奥をよく見
た。そこには絶対別の世界があるのだと信じていた。だって、確かにそれが見え
るのだから。そこに私は入って行けそうに思えるのだから。


いつまでも雲の世界に遊びなんわが幼年のまことの心

ビー玉を陽に透かし見る心地かな今は身体を委ねていたし

                   *               *

いつかしら朝の光に包まれぬ君に出す文綴りてあれば

「未完成」聴きながら書く学生の頃の純粋抱かんがため

もしも君今来たりなばいかにせん手紙のごとく語りつべきか

会いたしと思う心と会うまじと思う心とさだめかねつも

あらためて何を語らん口無しか君をし見れば道化のごとし

懊悩の五月は去りて六月の夢のひそめる街に出でたり

うつくしき人の心よ日曜の街歩きつつ思い馳せつも

陰に添い目守り果てんと思い切りあつき真昼にあつき道ゆく

ひたぶるに歩いてゆかんひたぶるに歩けば心晴れもやせんと

店に売るものうつくしき奈良漬けも鮭の切り身も山椒の実も

笛鼓ありて時間のとまりけり吾れが想いも今凝固する

面影の幽玄につと添いて見し心地のするがあやしかりける

                   *               *

ほろほろと人の子は歌う愚かなる時もかなしき時もいつでも

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