桃李歌壇

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17. 再會

青春の香り残れる喫茶店そを胸に占め道を行くなり

十何年来ざりきやはたわかねども確かに昔心とめし地

びゅうびゅうと風吹きてゆくくちびるをきつく噛み居てさびしき怺ゆ

あの折も雨がまじりきあの折も風吹きたりきひとり歌よむ


 かきつばたが観たいと思って、休日を利用して自転車で勧修寺に出かけた。小
栗栖の道を山科へ向けてどんどん行ったところにその寺はある。残念ながらかき
つばたは盛りを過ぎていて、八橋の世界に浸ることはできなかった。
 しかし、せっかくそこまで行ったのだから、もう少し足をのばして、あの「再
會」へ行ってみようと、ふと思い立った。

『 寂しいと感じずにはいられない時、心の騒ぐ時、人はどうして案外に充実し
た時間をもてるのだろうか。発見のよろこびはそんな時にこそ強く心に刻み込ま
れるのではないか。新しい街の発見は、確かに僕のかなしみであり、よろこびで
あり、そして真に充実した僕自身の時間に他ならなかった。
  僕は二度山を越え、二度新しい街を見出した。が、それは同じ街である。同
じ街だが、それはまるで別のもののように違った形で目の前に現れ、違った形で
心に染みた。どちらも自分にはかけがえのない大事な街である。
  そのころの僕は、自分でもよくわからない鬱々とした心を抱いて、毎日あて
もなく近くの山をただ歩いていた。山とはいっても小さなもので、毎日ほとんど
変わらぬ道を歩く、というより、どの道を選んでも結局は同じ道に出てしまう山
の構造になっていた。それでも何だか家でじっとしていられなくて、わざと人気
のあまりない山の中を歩き回っていた。
  初めてその街を訪れた日も、僕はやはり同じ道を歩くつもりだった。毎日歩
いているうちに、いつの間にか山はひそやかに季節のたたずまいを変えて、初秋
の空気が香り始めていた。ずんずん歩いていて、ふいにいつもと違う方向に向か
っている細い道のようなものを見つけた時、おそらく終生忘れることのない不思
議な体験への道が広がった。
  空はどんよりと薄墨色に濁り、雨が落ちてこないのが不思議な程の色合いだ
った。山の中の道だか道でないのかわからないような一本道を行く僕は、進めば
進むほど木が鬱蒼と茂り、いよいよ暗く薄気味悪くなるあたりの気配に、正直逃
げ出したくなるような恐ろしさを覚えていた。下り道だから必ずどこかに通じて
はいるはずだったが、行き先がどこだかわかるはずもない。両側が深い竹林の急
な坂にさしかかった時、林の奥で赤茶色の野犬が僕を睨んで吠えかけてきたが、
それはまったくもう恐怖の極みだった。
  それでもどうにかやや道は平坦になり、明るさも増して、ようやく人里に近
づいたかと思った時、最初に現れたのは荒れ果てた小さな社だった。そこを一気
に通り過ぎて、急に目の前に広がった風景に、僕は胸を躍らせた、街である。四
方を山に囲まれた広い土地に一個の大きな街が開けていた。なんだかわくわくす
るような気持が心の底から湧いてきた。何かが特に変わっていたわけでもない、
ただ偶然見つけた一本の道が、見たことのない街につながっていたということが、
何ともいえぬ不思議な気分にさせたのである。人っ子ひとりいない(まるでこの
別世界には人が住んでいないかのような気にさせる)、墓場の上をとんびが低く
旋回し、ところどころにカラスがとまっては羽ばたいている。不思議な気分は続
いている。
  しばらく歩いて少し大きな通りに出ると、ただのアスファルトの道なのだが、
その上を吹き過ぎる風の音か、それとも空気の匂いのせいなのか、妙に浪漫の灯
に輝いて見えた。道の向こうに茶色い屋根の喫茶店がぽつんと建っている。洋館
の雰囲気の漂う美しい店だった。入ってみたいという思いに駆られながら、逆に
何だか入りたくないような妙な気持もあって、結局そのまま行き過ぎて振り返る
と、重い雲に抱かれて、その店は透き通った青白い炎に包まれているように見え
た。
  歩いて行くほどに、次々と現出して消えるその街の姿に、腫れ上がっていた
心はだんだん透明になって、なんだか泣き出したいような思いに満たされ始めて
いた。最初の訪れはそんな優しい街との出会いだった。

  再びその街を訪れたのは、又の年の春、桜もまだ咲き始めていない頃である。
うららかに晴れ渡った空を、あえて同じ道を辿って歩いた。けれども街は秋に訪
れた時とはまるで違っていた。あるいは空の色のせいだったかも知れない。黄色
い花をつけた草があちこちに散らばって、青い空に鮮やかに照り映えていた。前
回のように感傷的でなかったせいか、街は明るく輝いて、秋のかなしみを一掃さ
せていた。
  前には入り得なかった喫茶店の門をゆっくりと押し入った時、からだ全体を
包み込むようなあたたかい異国情調にあふれた店の雰囲気に、僕はむしろとまど
ってしまうぐらいだった。ゆったりしたソファーに腰をうずめて飲む珈琲の香り、
甘酸っぱい、ちょっとせつなくなるような、胸をくすぐるような感じ。けれども
その時はそんな感傷よりも、もっと冷静に、広がる田畑に花びらを散らしている
黄色い花や、降りそそぐ陽光に銀にきらめいている干し魚、騒々しい音を立てて
通り過ぎる車と人々の声などとの調和を味わいたい、自分で絵を描いているよう
な気分だった。
  そしてそれは、二人の中年の男の人が店に入ってきて僕の隣に座った時、頂
点に達した。彼らはテーブルの上に一つの木箱を取り出して、紫色の布を取り払
った。
  ――能面――
 である。彼らはそれをそっと手にとって、いつ果てるとも知れない能の話に興
じ始めた。むろんそこで能が演じられたわけではない。が、彼らのことばの中に
繰り広げられた古い芸能の世界は、不思議に時間を超越して新しい街に生きた。
  喫茶店の前にたたずむ僕は、洋々と広がってやまない街を見つめながら、え
もいわれぬ幸せな気分に浸っていた。自分と街を結びつけるものが、徹頭徹尾主
観に終始して、偶然が時の経つごとに必然性を帯びてくる、それに対する不思議
なよろこびだった。

  さびしくてたまらなくなったり、自分が何をしているのかわからなくなる時、
ふっとあの街のことを思い出すことがある。あの街は、そしてあの喫茶店は今も
浪漫にちろろめいたり、薄紫に燃え上がったりしているのだろうか。また行って
みたいような、でももう消えてしまっているような気もする、自分を呼び寄せる
街の匂いが、一瞬すべての体験を甦らせて、心を千々に乱れさせる。でも、そん
などこか甘い思いに、いつまでも浸っていることも、今は少なくない。』

今から十七年も前のことだ。うまく表現できなくて、あえて「ちろろめく」とい
う言葉を作って、あの時の不思議な幻想のようなものを伝えようとした、書いた
のも本当についこの間のような気がするのだが。
 この不思議な体験のことは、あれから何度も人に話した。教師になってからは、
授業の余談の中でも、むしろ愉快な体験のようにごまかして話した。話すたびご
とに、大事なものがどんどん色あせていくように思えてならなかった。何か一番
肝心なことをきちんと伝えていないような、でもそんな相手は誰もいないような、
だから話せば話すほど、どんどん汚れていく、どんどん嘘になっていくような、
そんな感じがしていた。

 勧修寺の近くだったという記憶から、さらに山科へ向けてペダルをこいだ。な
んとなく記憶にあるようで今ひとつ確信がもてない、そんなもどかしい気持で、
あちこちを探してみたが、どうも見つからない。雨がポツポツ降り始めて焦る気
持を抑えられなくなりそうな、そんな時、急に「再會」の看板が目に入った。十
七年前にはそんなになかったはずのツタがほとんど建物の全部を覆い尽くしてい
たが、まぎれもなくそれはあの喫茶店だった。疲れてイライラした気持に飲み込
まれそうになっていた時に、突如現れたその店は、何だか自分を不思議な思いに
させた。あの時と同じように、ゆっくりと扉を押して中に入る、急に時の流れが
逆行する。何も変わってはいない、少なくとも自分の記憶の中にあるそのままの
「再會」だった。


そこかここか道に迷いてかなしきに雨の「再會」ふと見出でたり

山道をまどいありきて見つけたる最初の「再會」十九歳の頃か

雲重く垂れ込め暗き空に屋根凛と立ちしが己が原点

せわしくておのれ失う時はいつもあの紫の炎思ほゆ

なにゆえにつゆ訪わざりしいつかしら死に絶えにしか若き魂

音もなく雨はそほ降るはやすぎる時の流れを悲しむごとく


 「再會」のやさしい雰囲気の中、昼食を済ませた私は、小雨の降る中、あの折
通った道を探してみようと思い立って、自転車のペダルをこいだ。しかし、どれ
だけ探し回っても、あの墓場も小さな社も、ついに見出すことはできなかった。
十七年の間に何もかもがすっかり変わってしまったからなのか、はっきりと覚え
ていたはずなのに、忘れてしまったのか、わずかな手がかりすら見つからずじま
いだった。雨がどんどんきつくなり、断念を余儀なくされたが、それが何かの意
志によるような、そんな敬虔な思いを、いつまでもいつまでも漠然と感じずには
いられなかった。

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