桃李歌壇

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16. 死ぬこと

たえて死を思うことなしその軽み軽みの故に我れは憂うる

心すでに定めきりつと思いしが深く傷つく己れを知れり

心ゆくまでひとり道歩きたし人も憂いもみんな忘れて

生きてゆくことがつらくて人は死ぬそんな事実も知らぬ我が身よ

あと三十生くるは長きか短きかこの頃ふっと考えている

酒飲みの宴会なりき酒は好きされどつくづくかなしかりけり

毎日を重ねてゆくが人生と価値を見出すことのむなしく

関雪の絵を見に来しがはからずも庭の心にしばし佇む

狂おしき日常に蔽われて歌よむ心かわきそめてき

ひそやかにされど確かに誓いてしまことの我れを忘るべからず

今日一日生きてあらんか灯を何にもとむるわからぬままに

人がみな厭になりぬる十余年生きたることのかくもむなしき

かりそめに死すべくあらば己が身のいのちの価値を知らましものを

吾れ死せば悲しむ人もあらめども歌のまことを誰も知るまじ

我が歌の悲しきもまたうれしきも死して亡びば切なかりなん

終わりなき旅に出でなんさすらいのかなわぬことを辿る歯がゆさ

理想とは異なる今の現実を見据えてゆくが大人の生き方?

陽を背(せな)に受けつつ走るかなしくもペダルは重しペダルは重し

日にけ日にけおのが覚悟の情けなき生きてゆくことうたてくなりぬ

声に出す勇気がなくて両の手を自分のためににぎる寂しさ

かくまでも憂いなずむを誰ひとり知る人なきぞ悲しかりける

寒々と吹き抜けてゆく風にのり遠くの夢を探しにゆかん

斑雲(はだらぐも)誘(いざな)うなかれ我れは今かくも危険な歌人なれば


 ずっともがいている、これまで生きてきた人生のその半分が、何の価値もない
ように思えて。いつか少しずつずれていった、いつか少しずつ見えなくなってい
った、鈍くなっていった、麻痺していった、間違っていった… 何かそういった
ことが、途方もなく悲しく惜しくて、必死になって取り戻そうとしている。
 長い時が流れると悲しいものだ。大事なものだからしっかり記憶していると思
いこんでいることが、実は全然あてにならない。過去をさかのぼって失ったもの
の痕跡をもとめようとしても、もう本当に何も残っていはしないのだ。みんな本
当につい昨日のことのように思えるのに。
 見つからないものを見つけるために、旅に出る、美術展に行く、知らない町を
歩いてみる、何か手がかりがありはしないかと。あの頃の純粋はきっと必ず取り
戻せるはずだと。一日一日が過ぎてゆく。毎日もがく。私はこうしてもがいたま
ま老いてゆくのだろうか、結局何も得られぬままに。激しい恐怖に襲われる。私
が失っているもの、それはいったい… 永遠の真っ暗闇がなおも自分の前に沈黙
している、そのことを私はまたしても思い知らされる。


今日もまた朝を迎えつとめどなき寂しさの中同じ道行く

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