桃李歌壇

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6. 虫

初めて恋をした頃から、ずっと不思議に思っていることがある。春の深まりを
肌で感じ始める頃、きまって夜鳴く虫があるのだ、それもほんの一時。少し前ま
でひいやりとしていたのが嘘のように蒸し蒸しする夜、ふと気付くとその虫が鳴
いている。ジイと音程を変えず、少しの間断もなく夜通し。
 夏の接近には色々な想いがつきまとっている。そのひとつひとつが、虫の声に
甦る。あの虫はいったい何なのだ? 蝉か? いつも不思議に思いながら、つい
にわからぬままに年をとった。いまさら調べるつもりはないが、今年もまた鳴い
ている、ただジイと。美しい声ではない、心の惹かれる響きがあるわけでもない、
ただジイと。でも、夏を迎える私は、いつかその声に聞き耳を立てている。自分
の中で過ぎ去った時間が気になるのだ。ジイと鳴くその声を聞けば、それが取り
戻せるような、もう一度確かめられるような、そんなはかない思いに駆られて。
疲れた人の子は、心のうちを手探りながら、いつまでもいつまでもその声を聞き
続ける。


春の夜にジイと鳴く虫夜一夜しみわたるらん耳の奥底

身の奥に眠むる魂虫の音にふと驚きて顫え初めたり

春の夜の道を歩きし日もありきジイと鳴く虫せつなかりしも

夜の虫ジイとせつなく鳴く夜はせめてアカシヤ匂わずにあれ

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