初めて恋をした頃から、ずっと不思議に思っていることがある。春の深まりを 肌で感じ始める頃、きまって夜鳴く虫があるのだ、それもほんの一時。少し前ま でひいやりとしていたのが嘘のように蒸し蒸しする夜、ふと気付くとその虫が鳴 いている。ジイと音程を変えず、少しの間断もなく夜通し。 夏の接近には色々な想いがつきまとっている。そのひとつひとつが、虫の声に 甦る。あの虫はいったい何なのだ? 蝉か? いつも不思議に思いながら、つい にわからぬままに年をとった。いまさら調べるつもりはないが、今年もまた鳴い ている、ただジイと。美しい声ではない、心の惹かれる響きがあるわけでもない、 ただジイと。でも、夏を迎える私は、いつかその声に聞き耳を立てている。自分 の中で過ぎ去った時間が気になるのだ。ジイと鳴くその声を聞けば、それが取り 戻せるような、もう一度確かめられるような、そんなはかない思いに駆られて。 疲れた人の子は、心のうちを手探りながら、いつまでもいつまでもその声を聞き 続ける。 春の夜にジイと鳴く虫夜一夜しみわたるらん耳の奥底 身の奥に眠むる魂虫の音にふと驚きて顫え初めたり 春の夜の道を歩きし日もありきジイと鳴く虫せつなかりしも 夜の虫ジイとせつなく鳴く夜はせめてアカシヤ匂わずにあれ |