桃李歌壇  伯牙作品集 作者にメール

風と光と

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 さりげなく彼女は言った、
 ――怖いのよ、本当は。
 さりげなくは受け止めきれない重い言葉だった。
 ――未来がわかればいいのに、わかれば… あなただって、そうでしょう?
 僕は何も言わなかった。言えなかったというよりは、言ってはならないような
気がした。
 ――そしたら…
 言いさして、彼女は僕を見た。静かだけれども、何かを訴えるような目だった、
もとめているものがあります、と語っているような目だった。そしてしばらく彼
女は黙った。
 ――ねえ、未来なんかわからなくてもいいから、いっそ過ぎ去ったものがきち
   んと知りたいと思わないか?
 視線を僕の胸のあたりにそらして、彼女は何かごまかした私をとがめるように、
悲しい顔をした。でも、僕は本当のことを言っただけだった。
 ――三十七年の風と光と…
 高い空を吹き抜けてゆく風を見るように、そっと呟いた僕のそばで、彼女はち
ょっと考えていた。それからようやっと聞こえるような小さな溜め息をひとつつ
いて、思い直したような明るい声で言った。
 ――行きましょう、あったかい紅茶が飲みたいわ。
 ふいに、歩きかけた彼女の左手をとって、僕は大事なことを確認するように、
ぎゅっと手に力を入れた。彼女は背を向けたまま動かない、彼女がどんな涙を流
しているのか、見なくてもわかっていた。
 いつの間にか空はしぐれて、小さな雨粒が、きらきら光りながら落ちてくる、
風と光と、風と光と、きっとさっきの告白のような言葉は、彼女の頭の中で、ぐ
るぐる渦を巻いているに違いない。

吹き抜けてゆく風の音と足音と、せめて光は満ち満ちてあれ

目次

  1.ダイアナ       

  2.そよ風         

  3.風と光と

  4.

  5.あらし、そして三十七

  6.調書

  7.最後の箱

  8.秋は燃えるように

  9.CAMEL

 10.

 11.木曾路

 12.   

 13.愛はいつか

 14.夏のかたみ

 15.琴弾き

 16.仁清

 17.嘘つき